菊水のブログ

太平洋戦争などに興味がない人や知識がない人に、少しでも先人の思いを伝えるために開設しました。どちらかと言うと詳しい人向けではないのですが、還らざる先人の軌跡をご紹介できれば幸いです。

(19) 日本戦跡探訪 野島の掩体壕

横須賀市 

旧横須賀海軍航空隊跡地

野島の掩体壕

 

日本で初めて開隊された由緒ある海軍航空隊が横須賀海軍航空隊(愛称 横空)

 

練習航空隊の他、新型機材の技術試験などを行い日本の航空産業に多大な貢献を果たした。

 

戦況不利に伴い1944年2月には伝統ある横空にも実戦配備要請があり、東京都硫黄島に展開して防空戦を行ったが、同年7月までに全機材を喪失。
一部将兵硫黄島守備隊と共に玉砕した。

 

帰還できた兵員により再編成後は九州地区に展開し、特攻機の援護を担当。また一部の部隊は関東地区の防空任務についた。

 

終戦時には戦闘機26機、偵察機10機、攻撃機44機と他合計108機であった。
この野島の掩体壕は山一つを貫通する日本最大の掩体壕で、この地区に複数存在する掩体壕群で戦闘機100機を収容する予定だった。

 

写真は野島の掩体壕

近くの丘からは練習艦隊が見えました。

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「四国における旧海軍戦跡調査」7

「四国における旧海軍戦跡調査」

 旧高知海軍航空隊跡地

 前浜掩体壕

 

高知海軍航空隊(高知空)は1944年3月に開隊された。
高知空は偵察機搭乗員専修の練習航空隊であった。

 

高知空には約2000名の練習生が入隊し、日夜訓練に励んだ。訓練中に練習機による接触や、敵侵入機による戦闘により多くの隊員が犠牲となった。

 

戦局の悪化が決定的となった1945年3月、高知空は作戦実施部隊へ改編され飛行教育は凍結された。


しかし作戦機材は練習航空機白菊のままであり、5月5日には保有する白菊全機が特攻機の指定を受けた。

 

高知空部隊の初出撃は菊水7号作戦5月24日、同郷の徳島海軍航空隊と共に20機で出撃、8機未帰還を皮切りに次々と突入した。

 

練習機による特攻は実戦機に対する敵の迎撃を引きつける役割を含むなど、軍からの期待は薄かった。
しかし、実際には期待を上回る成果を上げていたことが戦後に判明。


練習機に対する通信機配備が指揮官機のみで指揮官機が撃墜された場合、戦果を報告できないため戦後まで実態は解明されなかった。

 

今では高知空を伝えるのは部隊慰霊碑とベトン製の掩体壕群のみである。
なお、高知空が使用していた飛行場は高知龍馬空港として使用されている。

 

(現地解説)

かなり狭い範囲に掩体壕が集中しており約一時間で見て回れます。

自動車の駐車場も前浜防災コミュニティーセンターを利用可能でした。

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「四国における旧海軍戦跡調査」6

「四国における旧海軍戦跡調査」
 第343海軍航空隊所属 紫電改
 収蔵場所 愛南町 紫電改展示館

 

この飛行機は大戦末期に海軍が送り出した局地戦闘機 紫電改である。


同機がこの場所に安置されている経緯は戦時中、豊後水道上空における迎撃戦で被撃墜されたところまで遡る。

 

同機は終戦後にダイバーにより海中で発見され、迎撃戦により戦死した兵の遺族立ち合いの中引き揚げられた。
しかし、機内には遺骨や遺留品がなく誰の機体だったのかは分からなかった。

 

正直、撃墜された場所や日時がしっかりしている例は非常に稀で、多くの航空隊搭乗員は何時、何処で、何故未帰還になったのかが判明しない。

本機は幸にして冷たい海中から出ることができた数少ない機体である。

 

本当はこの飛行機にまつわるストーリーは大変なものがある。別に機会があればご紹介したい。

写真は機体の写真と愛南町周辺と道中のもの。

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「四国における旧海軍戦跡調査」5

「四国における旧海軍戦跡調査」
 第343海軍航空隊所属 偵察機彩雲 墜落の地
 三魂之塔

 

この慰霊碑は第343海軍航空隊に所属していた偵察機が墜落した場所に地域の住人が建立したものである。

 

偵察機は大戦中、太平洋方面より侵入した敵航空機群の侵入を報告した際にエンジンが故障。
離脱する予定であったが別に侵入する敵編隊を発見した。

 

敵の侵入する高度や方角、機数や機種を報告するために離脱を断念して基地に連絡を続けた。
同機は基地と連絡中に敵の護衛戦闘機による追撃を受けて被弾。

追い詰められた同機は基地に「我突入ス」と連絡した後に消息を絶った。


後に同機は敵の編隊の中の一機と刺し違えて四国の山中に墜落していたことが判明。

見つかった搭乗員の遺体は偵察員、機銃員が銃撃により被弾しており操縦員も突入の衝撃を見ることができた。 

 

中でも偵察員は突入の瞬間まで通信機を送信していたため、銃撃による負傷の中で基地に最期を送信していたとみられる。

 

ちなみに迎撃戦は同機からの情報により日本軍有利に展開され、多数の米軍機が撃墜された。

この塔は捜索にあたった村人は三人の搭乗員の勇気を讃え、有志でこの慰霊碑を建立したものである。

 

未だに誰かの手によって手入れがされている。

雄大な四国の大地に抱かれるようにして眠っている。

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「四国における旧海軍戦跡調査」4

「四国における旧海軍戦跡調査」
 松山海軍航空隊跡地

 

松山海軍航空隊(松山空)は大戦中に一挙に拡大した航空隊搭乗員の教育体制を補うべく、昭和18年10月1日に松山の地に開隊された。

 

私も勘違いていたが、松山空はあくまで予科練の機関であり松山海軍航空基地の343空とは関係がない

同部隊は練習航空隊以前の教育部隊であるため航空機機材の配備はなく、昭和20年6月1日の予科練教育凍結により7月15日には解隊されて短すぎる歴史に幕を閉じました。

 

写真は松山空の慰霊碑。

他は松山市内の写真及び松山城から見た松山市街。

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「四国における旧海軍戦跡調査」3

「四国における旧海軍戦跡調査」 

託間海軍航空隊跡地 

神風特別攻撃隊出撃の地

 

託間海軍航空隊(託間空)は需要が拡大した航空機搭乗員の練習機関として開隊された。

 

本部隊の特筆すべき点は練習機材が練習機ではなく、いきなり実用機(実戦機)となっている点である。
一般に搭乗員の訓練課程は以下の通り。


1.予科練航空隊(機材配置無し)
2.練習航空隊(練習機による教育)
3.実戦部隊配置(実用機による教育)


しかし、託間空は練習機による過程を実用機で行うという部隊であり、逼迫した状況が伺える。

 

詫間空は練習航空隊であったが、戦局が悪化したのに伴い他の練習航空隊と同じく実戦部隊へと改編された。

沖縄戦以前より友軍機の誘導に従事、沖縄戦では水上機による特攻隊(琴平水心隊)を編成し4度にわたって出撃した。

 

ちなみに現在鹿屋にある二式飛行艇詫間空に残留していた託間31号機である。

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「四国における旧海軍戦跡調査」2

「四国における旧海軍戦跡調査」
 観音寺海軍航空隊
 観音寺市ふるさと学芸館 

 

実を言いうと正式には観音寺海軍航空隊(観音寺空)は存在しない。

観音寺空は国分海軍航空隊(国分空)を源流とする練習航空隊である。国分空は中等練習機(赤とんぼ)による初歩的な練習部隊だった。

 

しかし戦局が悪化し、沖縄防衛戦が開始されると九州地区の各飛行場は菊水作戦参加機や九州の防空部隊が展開することとなる。

しまいには一般道まで使って特攻機を送り出す有様であり、練習航空隊は貴重な飛行場は実戦部隊に引き渡し国分空は観音寺へ移転した。

 

国分空はこれにより観音寺空と呼ばれることがあり、観音寺空は実在しないながら呼称されることとなる。

観音寺空の特筆すべき点は他の練習航空隊が練習過程を凍結される中で、終戦まで中等練習機による特攻訓練を続けた点である。

 

幸いなことに観音寺空は特攻出撃する事はなかったが、観音寺空出身者は多数が出撃したものと思われる。

 

写真は観音寺市故郷学芸館の物です。

観音寺空のブースはごくごく一部で慰霊碑等の場所はわかりませんでした。

 

ただ地方の施設と侮ることなかれ。

民芸品なんかの品揃えは抜群だし、小学校をいぬきで使っているから理科室は懐かしい匂いがする。

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