台南の護り 零式戦闘機32型
零式艦上戦闘機 32型
(左 22型 右 32型)
不人気な零戦
日本人に一番認知されているであろう零式艦上戦闘機(以下零戦)であるが、11型に始まり54型までの型式があることはあまり知られていない。
なかでも零戦32型は失敗作と言われる事が多く生産数もごく少数で、21型以降初の全面改良型新鋭機であるのに内地の部隊に多く配備された。
(零式艦上戦闘機 21型)
(零式艦上戦闘機 上21型 下32型)
21型からの改良点は主に発動機の改装(栄12型から栄21型)、機銃携行弾数の増強、生産性の向上でした。
なかでも着目すべき点は生産性の向上で、工作難易度を減らすべく翼端が50cmずつ短縮され、角形になりました。
一方で翼の短縮などにより燃料タンクが縮小し、零戦持ち前の航続距離が短くなってしまいました。この短くなった航続距離が零戦32型の評価を大きく左右してしまいます。
その活躍
零戦32型は期待を背負って日々激化するガダルカナル航空戦に投入されます。
このガダルカナル航空戦の特徴は日米の拮抗する航空戦力が相対した最後の戦いと言える事でしょうか?
また、ラバウル方面からガダルカナル島まではかなりの距離があり、日本軍には大きな負担になりました。
こうした中で発生したのが二号零戦問題です。簡単な説明で恐縮ですが、ざっくり話すと一号零戦(21型)に対して二号零戦(32型)が航続距離が短過ぎるため、ガダルカナル航空戦に参加できないと言う話です。
兵器はいかに優れていようと必要な環境に適応できなくてはいけません。
登場した時期が零戦32型の評価を変えてしまったのです。
(写真は航続距離を延長した22型)
その後ブーゲンビル島に日本軍の前進基地が出来てからはこの問題は落ち着きを見せます。
零戦32型もようやく作戦に参加すると持ち前の格闘戦性能を活かして活躍します。
米軍からは零戦とは異なる新型戦闘機として認知され、コードネームはHampとされました(零戦はZeke)。米軍の評価は上々でした。
台湾上空で
そんな零戦32型の物語です。
場所は台南市街地上空。日付は1944年10月12日のことでした。この頃は台湾沖航空戦の真っ最中で台南に米艦載機が来襲しました。
それを迎撃した日本軍機の一機に搭乗したのが杉浦茂峰さんでした。
杉浦さんの駆る零戦32型は戦闘の最中被弾炎上、市街に向かって降下を始めます。しかし市街地への墜落を避けるべく郊外まで誘導し脱出したものの、米軍機の機銃掃射を受け戦死しました。
杉浦さんが自身の死が迫るなかで最後まで住民の命を守ろうとしたことに感謝して、現在では飛虎将軍廟にて神様として祀られています。(オカルト要素があるのですが、興味を持たれた方はご自身で調べてください)
2016年9月21日、杉浦さんの神像が故郷である水戸市に里帰りを果たしました。
それは実に戦後71年ぶりの里帰りとなり、水戸の市民有志に温かく迎えられました。
(6) 日本戦跡探訪 陸軍 三式戦闘機飛燕
彼は訪れる人に歴史を語る
各務原航空宇宙博物館と言えば知っている人も多いだろう。
ここは太平洋戦争前に陸軍が飛行場として開設したのがルーツとなる。
以来、各務原の地は陸軍の航空機開発拠点として重要な役割を果たした。
そんな場所も現在では新旧の航空機関連の展示がされ、大人から子供まで楽しむ事が出来る場所である。
旧軍機からお馴染みの機体に直接記された注意書。
写真は展示の一部。
そんななかでも筆者が注目して欲しいのは三式戦闘機飛燕です。
スマートな機体が特徴的。
泣きどころの液冷エンジン。
筆者が作ったプラモ。各務原で実物を見てからすぐに作りました。
この飛燕は試作機で実戦機ではありません。そのためこれまでご紹介した戦跡とは異なるように見えます。
しかし、筆者にはそのようには見えません。我々が飛燕を見ているのではなく、飛燕に見られているような気がします。かつては国を護るために広げた翼を今では休めて、訪れる人々を見守っています。
飛燕を見つめるカップルや子供連れの家族を見ると、飛燕は立派にお役目を果たされたのだと筆者は感じるのです。
写真はオマケです。飛行機はまさに日進月歩。
それは現在でも変わりありません。
(5) 日本戦跡探訪 第五教育飛行隊跡
育った場所より最期の出撃に向かう
陸軍太刀洗飛行場跡
写真は筑前町立大刀洗平和記念館の写真です。ここには陸軍太刀洗飛行場があり、教育飛行隊から数多くの航空兵が輩出されました。
ちなみに知覧基地は太刀洗にある教育隊が拡張されるにあたり開設されました。
この記念館で筆者が感じたのは「死は平等ではあるが、不公平である」という事でした。
太刀洗平和記念館には遺品などの他に実物大のB29を表すモニュメント、零戦32型、97式戦闘機が展示されています。
これは筆者が作ったプラモデル。
上が零戦21型で下が32型。翼端の形状で見分けがつきやすい。97式戦闘機は二枚のプロペラが特徴的です。
そもそも零戦は海軍戦闘機であるというツッコミは置いておくとして、私が注目して欲しいのは館の中央にある追憶の部屋である。
この追憶の部屋では太刀洗飛行場や付近で戦没された方々の写真と死因が記されている。
中には日本軍機の体当たりを受けたB29の乗員まである。
筆者がここで感じたのは「必ずしも望むような死に方はできない」ということだった。
どれだけ訓練を積んでいようと必ずしも空中戦で死ぬわけではない。
事故で死ぬかもしれないし、故障や爆撃で死ぬかもしれない。そもそも死にたかった人自体がいなかったろうが、それでも死ぬならば、、、と考えていたのではないだろうか。
追憶の部屋では人それぞれの死に際を考えさせられるように思う。
(4) 日本戦跡探訪 第二河和海軍航空隊跡
波間に浮かぶ海鷲
河和海軍航空隊
河和海軍航空隊(以下河和空)は1943年と1944年、系統の異なる部隊として開隊されました。
1943年に開隊された第一河和海軍航空隊(以下第一河和空)は、機体の整備教育を行うための練習航空隊でした。第一河和空は整備教育を行っていた追浜海軍航空隊を源流とします。
第一河和空には最盛期には9000名が在籍し、整備員の育成に努めました。
1944年に開隊された第ニ河和海軍航空隊(以下第ニ河和空)は、水上機搭乗員の育成を行うための練習航空隊でした。第ニ河和空は小松島海軍航空隊の知多派遣部隊を源流とします。
1944年8月には新型水上戦闘機である強風の配備が始まり、二式水戦などの各種水上機を配備しました。
戦況の悪化に伴い第ニ河和空も中京地区の防空戦に参加し、1945年1月19日にはB29の撃墜を報じました。
また河和空でも特別攻撃隊の編成が下令され、2月26日には御楯隊(河和隊)を編成し、以降は強風などによる迎撃戦と河和隊の訓練に従事します。
しかし1945年の6月には河和基地が攻撃を受けるようになり、機材の秘匿と維持で活動が低調となりました。
河和隊は1945年8月5日、特攻出撃のため九州は玄界灘基地(玄界灘海軍航空隊)に進出し8月15日の出撃が決定するも、玉音放送により出撃取り止めとなり24日には原隊に復帰し武装解除となりました。
河和海軍航空隊 スベリ(水上機滑走台)
今では周囲をソーラーパネルに囲まれたこの地には、河和空の歴史を残す遺構は少なくなりました。
現在河和漁港に残っているスベリは数少ない遺構です。この規模のスベリは全国的にも珍しく、他には四国の詫間海軍航空隊跡にもスベリがあります。
(上の写真は河和空スベリより撮影)
今となっては水上機の爆音も響かなくなって久しい滑走台ですが、この地で感じる波の音や風の音、山々の景色は当時とほぼ変わらないはずです。
筆者が滑走台に立って目を瞑ると波の音が響き渡り、戦時中の訓練生や教官の方々も波の音に耳を傾けたのかとタイムスリップをしたような感覚を味わえます。
滑走台だけのために河和にくるのは大変に思われます。先人を偲ぶ傍らで知多の海の幸も一緒にご堪能されるのが良いと思います。
(3) 日本戦跡探訪 串良海軍航空基地
特攻機の最期の声を聞け
串良海軍航空隊
串良海軍航空隊(以下串良空)は1943年に、機体整備員の練習航空隊としてその歴史を刻み始めました。
開隊後は逼迫する整備員需要に応える反面、予科練教育機関に指定され、予科練教育を開始します。
合計で約5000名を内外の航空隊に送り出した串良空でしたが、九州の他の航空隊と同様に基地設備を菊水作戦参加部隊に明け渡して疎開したと思われます。
串良空の最期は1945年6月1日、全国の予科練教育の停止によりその役割を果たして翌月に解隊となりました。
串良海軍航空基地
菊水作戦が開始になると全国より作戦機が九州に飛来するようになります。それは串良基地も例外ではなく、最近話題になっている兵庫県の加西市にある鶉野飛行場を出撃した白鷲隊は、串良を経由して沖縄に突入しました。
この白鷲隊は練習生により編成されており、戦況がいかに逼迫したものだったのかが伺えます。
特攻機の他に一般作戦機も多数が出撃し、その多くが未帰還となりました。
ちなみ日本海軍航空隊の通常攻撃による最後の大きな戦果は、串良基地を出撃した天山艦攻による夜間雷撃でした。
菊水作戦中に串良より出撃した特攻機搭乗員363名、一般作戦機210名が戦死されました。
串良平和公園と地下壕第一電信室
75年前は将兵や市民が手に手に帽子や布を振って特攻機を見送った串良基地は、現在では串良平和公園として整備され、桜の名所として有名です。桜を楽しむだけでも結構ですので皆様の元気なお顔をお見せください。元気な私達の顔をお見せする事が何よりの供養になるのではないでしょうか。
串良平和公園の特徴は特攻機搭乗員の他に、通常作戦機搭乗員の慰霊碑が多数建立されていることです。特攻機の話はよく語られますが、通常作戦機(直掩、偵察、攻撃)の方々が語られる事は少ないように思います。
写真は串良平和公園(旧串良海軍航空基地跡)
特攻機の最期の声を聞け
菊水が戦跡巡りを始めるきっかけとなったのが、地下壕第一電信室でした。
写真が地下壕第一電信室跡です。
住宅街の一角にポツンと佇んでいるそれがどのような役割を果たしていたか。この電信室では特攻機の突入電を受信して戦果判定の情報を収集していました。
この突入電とは特攻機が自ら突入前に発するもので、突入する艦種などを打電し最後は突入するまでキーを押しっぱなしにします。その音が途絶えた時、それはその搭乗員が戦死したことを意味します。
米軍の苛烈な迎撃を振り切り、濃密な弾幕を突破し最期まで目標に向かって突入しながら自身で戦果報告まで行わねばならない。
その事実に激しい衝撃を受けたことを覚えています。
この地下壕第一電信室跡では当時の突入電が再現されたものを聞く事ができます。
最後のツー音が部屋に響き渡り静かになった時の静寂に、電信室に勤務した方の息遣いを感じる事が出来るかもしれません。
こぼれ話
- 当時は航空基地があった串良平和公園も現在では桜の名称として人気を博しています。
- 東九州自動車道は非常に景色が良いです。特に海に面している区間は文字では形容し難い美しさです(残念ながら写真はない)。九州は非常に景色が良い場所だと感じました。
(2) 日本戦跡探訪 薩摩菓子 富久屋
特攻機は上空を旋回して南の空に消えた
海軍タルト
海軍タルトというお菓子をご存知の方はあまりいないかもしれません。
この海軍タルトとは、薩摩菓子 富久屋で現在(2020年)販売されているものです。
一見するとありがちなお菓子に見える海軍タルトですが歴史を辿ると見え方が変わってきます。
この海軍タルトは太平洋戦争中、鹿屋海軍航空基地より出撃した特攻機搭乗員に渡されたお菓子を現代に再現したものだそうです。
そのため操縦桿を握りながらも片手で食べられるよう、このような形をしています。
つまり、海軍タルトは鹿屋基地を出撃した特攻機搭乗員が最期に口にした食事と言えるかもしれません。何もかもが不足していた戦時中にこのお菓子を作るのは大変なことだったそうで、特攻機搭乗員のためになんとか拵えたものだったようです。
搭乗員は機内で何を思ったのでしょうか。
筆者が鹿屋で頂いた海軍タルトはしっとりとした優しい味をしておりました。
富久屋さんでは海軍タルトの売り上げで、鹿屋航空基地より出撃散華された908名の戦没者の灯籠の建立を目指されているそうです。
この灯籠の建立が叶うことを願ってやみません。
写真は薩摩菓子処 富久屋さんの近くの商店街。
どこかゆったりとした時間の流れを感じる。
(1) 日本戦跡探訪 鹿屋海軍航空基地
九州最大の特攻隊出撃拠点
海軍の町 鹿屋市
鹿屋といえば現在でも海上自衛隊の鹿屋基地がある。鹿屋市はどちらかと言うと都会ではないが、自衛隊指定の散髪屋があるあたり現代でも海軍の町と言っても差し支えないと思います。
鹿屋海軍航空隊(第七五一海軍航空隊)
鹿屋海軍航空基地を根城にする鹿屋海軍航空隊(以下鹿屋空)は1936年に開隊され、外戦作戦実施部隊として活躍、日中戦争より戦闘機部隊を併設する陸攻(陸上攻撃機)部隊は渡洋爆撃に活躍しました。
外戦作戦実施部隊とは戦時には国外に展開して作戦を遂行する部隊で、ラバウルで有名な台南空や横空こと横浜海軍航空隊があります。
鹿屋空は後に太平洋戦争が開戦すると陸攻部隊の一部を南方に派遣し、派遣部隊はマレー沖海戦に参加するなどしました。
開戦翌年の1942年に海軍航空隊の再編により第七五一海軍航空隊と改称され、戦闘機隊は分離独立し第ニ五三海軍航空隊となりました。
改変後はラバウルやテニアンで戦力を払底し、1944年6月にあ号作戦(マリアナにおける米艦隊迎撃戦)で全戦力を喪失し翌7月10日に解隊となりました。
七五一空転出後の鹿屋基地では、1942年10月1日に七五一空に改称した鹿屋空より旧名を頂いた鹿屋海軍航空隊(二代目)が開隊されました。
新鹿屋空(仮称)は外戦部隊であった旧鹿屋空とは異なり、艦攻や艦爆の搭乗員の錬成部隊として設立されました。
その後1944年には陸上攻撃機の搭乗員錬成に変更されたのも束の間、戦況の悪化に伴い九州地区が攻撃を受けるようになります。
最終的には菊水作戦に呼応した実戦部隊に基地設備を譲り渡すこととなり、練習部隊の機能を豊橋海軍航空隊に移転し1944年7月10日、奇しくも七五一空と同じ日にその歴史の幕を閉じました。
鹿屋海軍航空基地と菊水作戦
大戦末期には九州の各基地は沖縄防衛の最前線基地として使用されました。なかでも鹿屋海軍航空基地は九州内の大規模基地としては最も沖縄に近く、第五航空艦隊司令部が設置され、菊水作戦に呼応して全国より集結した作戦機搭乗員908名が鹿屋の地を飛び立ち沖縄の波間に散りました。
鹿屋航空基地資料館
鹿屋航空基地資料館は1973年に開館し、戦中の資料や現在の自衛隊を解説しています。
なかでも特攻隊や作戦機の搭乗員犠牲者に関する資料がよく展示されています。
また、戦後に再会した搭乗員達による展示や慰霊碑があります。戦後の平和な時代とのギャップに生きづらさを感じた人も多かったのではないでしょうか。
そんななかでも胸を打つのは左右一面にある戦死搭乗員の写真です。壁一面の顔、顔、顔。誰かに見送られるでもなく沖縄の海にひっそりと散った英霊の方々です。
最後の出撃に何を思ったのでしょうか。
遺族の方々は家族の戦死をどのように受け止めたのでしょうか。
出撃直前に綴られた家族に宛てた手紙には、勇ましくも自身亡き後の家族を思う気持ちが滲み出ています。
上の写真は実際に鹿屋に展示されています。