新たなる矛 艦上攻撃機 天山
中島 艦上攻撃機 天山
期待の新鋭機
艦上攻撃機 天山(以下天山)は九七式艦上攻撃機(以下九七艦攻)の後継機として期待を持って送り出されました。時期は1943年7月のことでした。
実は天山試作機の初飛行は1941年3月でしたが、中島飛行機が選定した護エンジンが不調でなかなか審査が通らず時期がずれ込みました。
そんな天山でしたが開戦以来いよいよ第一線機としては陳腐化が深刻な九七艦攻を更新するべく、実用試験前より130機を発注するような状況でした。
最終的に海軍は中島の提案した護エンジンを三菱製火星エンジンに改装した天山の開発を指示しました。戦争中とは言え、中島の技術者達の悔しさは計り知れないものだったでしょう。
(天山のプロペラ 鹿屋航空基地資料館にて。海面を叩いて変形している。恐らく被撃墜された機体と思われる。)
(火星エンジンの大きさがわかる)
遅すぎた新鋭機
ようやく実戦に送り込まれた天山の初任務は激化の一途を辿るブーゲンビル島沖航空戦でした。当時はまだ日本航空戦力が多少健在な時期ではありましたが、大きな戦果をあげることはできませんでした。
恐らくこれは雷撃という任務の特殊性にあるように思います。ミッドウェー海戦における米雷撃機の損害の大きさにも見てとれます。
ここで雷撃に至るまでの流れを掴みましょう。
① 艦上戦闘機が敵艦上空を制圧する
②艦上爆撃機が敵対空砲を破壊する
③艦上攻撃機が防御の薄くなった艦隊に突入する
つまり雷撃は最後の仕上げと言ったところでしょうか?
とくに攻撃機(雷撃機)は重い魚雷を抱いて超低空を低速で飛行します。また一度雷撃に入ると進路を変更することもできません。
つまり、攻撃機が生還するには絶対的制空権と敵対空砲に対する多少の被害が必要になるわけです。
1943年7月、多少は健在だった航空戦力ではありましたが、天山が活躍するには既に厳しい状況であったと言わざるを得ないでしょう。
最終的に白昼堂々の雷撃は被害が大きすぎるとして、少数機による夜間雷撃にシフトしていきました。
(夜間雷撃用に電探と電波高度計が3機に1機が装備された)
(後部機銃がカッコイイ)
その後天山は攻撃機としての運用の他、対潜哨戒、爆戦誘導、索敵任務等多種多様な任務に対応し、大きな損害を出しながらも日本海軍の活動を支えました。
天山の問題より日本海軍の問題
こんな事を書くと批判を受けそうですがさまざまな方面より考察します。
日露戦争で活躍した軍人である東郷平八郎は、軍縮会議にあたって主力艦の保有制限について意見を問われた際に「主力艦に制限はあっても訓練に制限はない」と発言したとされています。
太平洋戦争前の日本は制限された軍備を最大限に活用するべく、優秀な人材を集め錬成を怠りませんでした。また、中国軍との戦闘で実戦の経験も豊富でした。恐らく日本の初戦における快進撃に大きく寄与したことは間違いありません。
しかし、ガ島航空戦等を通してベテランが消耗した後の後継者育成には失敗したように思います。
というよりも、日本に大戦中に人材を育て上げる余裕がなかったという事だと思います。
また航空機も新機材が次々に送り出されたこともその錬成を困難にしたように思います。
天山に関してもせっかく装着された電探も使用方法の訓練が追いつかず、アンテナをノコギリで切り落とした事もあったようです。
また、台湾沖航空戦の際にも戦爆連合で出撃したは良いものの、一度も共同戦闘訓練をしていなかったなど練度の低下が著しかったのも天山の活躍を阻んだのではないでしょうか。
(7) 日本戦跡探訪 鶉野飛行場跡
沖縄の海に散った白鷲たち
兵庫県 加西市 鶉野飛行場
鶉野飛行場の始まりは川西航空機姫路製作所組立工場の専用飛行場として産声を上げました。
戦争中期以降は海軍の姫路海軍航空隊(以下姫路空)、筑波海軍航空隊(以下筑波空)が進出し、攻撃機搭乗員の錬成や特攻隊(白鷲隊)が編成されました。
姫路海軍航空隊
姫路空は1943年に開隊され、艦上攻撃機搭乗員の養成を行いました。艦上攻撃機とは主に空母より発艦し、雷撃、水平爆撃、偵察に利用されました。
また、空母だけでなく地上基地においても広く活躍しました。
(九七式艦上攻撃機)
(艦上攻撃機 天山 ちなみに菊水は天山が一番好き)
姫路空は訓練部隊でしたが中期より実戦部隊として改編され、なかでも技量優秀な練習生より編成された白鷲隊が菊水作戦に参加しています。参加延機数は20機で63名の搭乗員が串良基地を経由して突入しました。
1945年5月4日の攻撃で作戦機を全て喪失した姫路空は翌5日で解隊となり短くも雄々しい歴史に幕を閉じました。
筑波海軍航空隊
筑波空は当初は霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊を元に発足しました。正式に筑波空となったのは1938年12月15日で以後は予科練の教育に努めてました。筑波空は特に戦闘機専修の訓練を行いました。
(筑波空にも配備された零式艦上戦闘機)
(迎撃用に配備された紫電)
しかし、戦局が悪化した1944年より練習機による訓練から実戦機による訓練過程に切り替えが行われ、教官により迎撃部隊が編成されるに至りました。
1945年2月20日、ついに筑波空にも特攻隊編成命令(筑波隊)が発令され、4月6日(菊水一号作戦)から沖縄方面に突入を開始します。
筑波空はこの後菊水十号作戦まで作戦に呼応し、6月22日の出撃が最後の特攻出撃となりました。
筑波隊は作戦参加将兵64名のうち55名が終戦までに沖縄の波間に散りました。
現在の鶉野飛行場
(無蓋掩体壕)
(高射機銃陣地)
現在の鶉野飛行場跡ではかつての戦跡を復元、維持しつつ後世に歴史を伝える場となりつつあります。
菊水は機銃陣地でふと思いました。
自分が陣地から見上げた空や山々を先人達も眺めたのかと、、、。
もう帰らない戦友をどのような気持ちで見送ったのでしょうか?
頭上の護り 九七式戦闘機
九七式戦闘機
近代陸軍戦闘機のご先祖さま
幕末よりようやく産業革命に足を踏み入れた日本ですが、航空機開発にはかなりの遅れがありました。
そんななか中島飛行機が世に送り出したのが九七式戦闘機(以下九七戦)で、ようやく列強に追いついたのでありました(スピリットファイアも同世代)。
一見すると引き込み足でもない古めかしい戦闘機に見えますが、頑丈な固定脚は整備状況の悪い飛行場での運用を可能にしました。
ただ、あまりに保守的な設計は九七戦の陳腐化を予感させました。
実戦での九七戦
九七戦は日中戦争より戦線に投入され、輸入した多種多様な戦闘機を駆る中国空軍を圧倒しました。
またノモンハン事変ではソビエト空軍に対し勇戦し、制空権を確保出来たことで陸軍の行動を支えました。
なかでもノモンハン事変でのソビエト空軍による一撃離脱戦法に対し、本機が苦戦した経験は後々の陸軍戦闘機開発を柔軟な物としました。
まさしく九七戦は陸軍兵の頭上の護りだったのです。
一式戦闘機 隼
三式戦闘機 飛燕
四式戦闘機 疾風
五式戦闘機 (右側)
二式戦闘機 鐘馗が抜けているのはご愛嬌で、、、。
なかでも一式戦闘機隼は九七戦持ち前の保守的な手堅い設計を受け継ぎ、大戦を通して活躍しました。
陸軍に多大な影響を与えた九七戦の遺伝子は一式戦闘機以降の陸軍戦闘機に受け継がれていきました。
九七戦の最期
陸軍に多大な貢献をした九七戦でしたが、大戦末期には他の陸軍機と同様に爆装戦闘機となり、米機動艦隊が布陣する沖縄の空に挑んでいきました。
出力の低い九七戦では爆装を施すと離陸すら精一杯であったようです。
現在では博多湾より引き上げられた九七戦が筑前町 太刀洗平和記念館でその翼を休め、搭乗員達と共に護り抜いた日本を見守っています。
北の護り 二式水上戦闘機
二式水上戦闘機
二式水上戦闘機といえばR方面航空隊など南方戦線で活躍したイメージがあるのではないだろうか?。
二式水上戦闘機は島国である日本が飛行場を整備できない場所や、飛行場を整備するまでの仮設防空戦闘機のような物だと理解してくれれば良い。
原型は三菱製の零式艦上戦闘機であったが、中島飛行機によりフロート付きの水上戦闘機として生まれ変わった。
零戦22型
零戦32型
ちなみにこのような水上戦闘機を大量に生産したのは日本だけである。
そんな二式水上戦闘機最期の勇姿は北方にありました。
1945年8月18日、急遽侵攻を始めたソ連軍に対して、第五方面軍司令 樋口季一郎中将により命ぜられた総反撃に呼応した攻撃がありました。
鎮海海軍航空隊 塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機はソ連軍タンカーに特攻を敢行しますが、対空砲火に被弾しその翼を北方の冷たい波に濡らしました。
この戦いでは占守島方面において呼応した作戦機が被弾後に体当たりを行ったりしています。
ようやく終戦となり無事に故郷に帰り大切な人に会える。そのような状況から一転、特攻を敢行する心情は文章では表現できません。
どうか皆様、ほんの数十年前に日本を分断するような国難に立ち向かった先人の偉業を忘れないでください。
日本歴史探訪② 和歌山県 串本町
いざ行かん、潮岬
仕事中に翌日の休みにドライブがしたいと思い立ち、広げた日本地図に「潮岬」と言う文字を見つけた、、、。
帰宅するや車中泊の準備をして出撃。
あっさりと眠気に負けて紀北PAで眠りにつく。
① 橋杭岩
第一目的地は橋杭岩(道の駅)を目指した。太平洋を眺める道路を通り、道の駅に車を止めて海を眺めた。
足元に目をやると拳くらいの赤いカニがこちらを見上げていた(思わず飛び退いた)。
夏になれば海水浴場になるのだろうか?。
静かに波が打ち寄せており水上機の訓練に使えそうですね。
②潮岬及び潮岬灯台
いよいよ主要目的地に到着。昨年だったと記憶していたが人は非常に少なかった。
率直に言おう。
展望階の梯子が怖過ぎる(高所恐怖症)。
これは自身で経験して欲しい。失礼なように思うが高齢者の方やお子さんは危ないと思う。
展望階にある外の梯子にも目を疑ったが。
整備士や管理者様には頭が下がります。
③ エルトゥールル号受難の地
日本とトルコの友好のきっかけにもなったエルトゥールル号事件があった場所を望む高台です。
このお方は近代トルコの父。
ムスタファ・ケマルの像。
ここら辺は流れがキツく船が多数遭難するような場所らしい。資料館では係の方が丁寧に説明してくれました。
祖国を遥かに日本まできて異国の地に眠る方々、どうか魂だけでも祖国に帰れるよう願わずにはいられません。
トルコアイスなんかもありますので興味のある方はぜひどうぞ。
日本情景探訪(1) 琵琶湖
滋賀県 琵琶湖take1
日本で最大の湖である琵琶湖で過去に撮った写真をここに載せてオススメがあればご紹介する。
① 港町 鎮魂の碑
まず紹介するのは長浜市内に琵琶湖を望む高台に鎮座する、滋賀県内戦没者慰霊のための碑である。
遅い季節であったのに鮮やかな紅色に目を奪われる。
② 琵琶湖湖畔
琵琶湖と言えばと規定の箇所が良いとは思わない。
琵琶湖の楽しみは街道沿いにちょくちょく存在する無料駐車場に付属する砂浜がオススメである。
基本的にはさざなみ街道沿いに走ってもらえれば良い。
まったく人通りのない湖畔に座って夕日を見るのは贅沢な気分になります。
筆者は学生時代に部活の先輩達と遊びに来て以来の地に足をつけた旅となりました。
今はもう連絡もとらないけど元気にしているのかなぁ。
琵琶湖は夏になると水遊びできるし家族で来ると楽しそうですね。
日本情景探訪では有名な観光地や「え、そこ?」な場所をご紹介できればと思います。
筆者の自己満足ですので内容が稚拙なことはご容赦ください。
日本歴史訪歩① 風土伝承館杉浦医院
何百年と続く風土病に向き合った人達
かつて日本には山梨県甲府盆地を中心に原因不明の病が存在した。
この病は日本住血吸虫という寄生虫に起因する病気で、古くは戦国時代から甲府の民を苦しめていた。この病を日本住血吸虫症(地方病)と言う。
風土伝承館杉浦医院とは当時は未知の病であった地方病と闘った先人達の軌跡である。
杉浦医院では当時を昔のままで現在に伝えている。
筆者が過去とのつながりを感じたのは診察室の診察台である。
展示されている写真の中には患者がこの診察台に寝ているものもある。
筆者が手を置いた場所にかつては生死を彷徨う患者がいたのだ。
写真のスチブナールとは当時開発された地方病の特効薬であった。しかし、強い副作用や高額であったなど、人々を救うには当時の日本は貧し過ぎた。
ここで飼育されているのはなんと「カワニナ」である(なんでやねん!)。中間宿主であった「ミヤイリガイ」はいない。
宮入教授はこの貝に自身の名前をつけられたことをどう思ったのか、それは「ナナマキガイ」と呼ばせているあたり好意的には思わなかったのかもしれない。
最後に筆者が強調したい事が二つある。
一つは地方病を克服したのは日本のみである。
もう一つはこの未知の病を克服する上で重要な役割を果たしたのは、地方の現地人であった事である。
もちろん県外の多くの有志による協力なくして解決は不可能である。
それでも一住民に至るまでミヤイリガイ(ある意味で被害者と言える)の撲滅に努めた。
先人達が愛した土地にはそれを伝える人々と忘れまいとする意識が強く根付いている。