(10) 日本戦跡探訪 若桜の碑
国難に立ち向かう若鷲よ集え
岡崎海軍航空隊
岡崎海軍航空隊(以下岡崎空)は1944年2月に第一河和海軍航空隊(以下河和空)の岡崎分遣隊発足にルーツを持ちます。
河和空は第一河和海軍航空隊と第二河和海軍航空隊に分かれており、第一河和空が整備兵の育成を担当し、第二河和空は水上機搭乗員の育成を行いました。
本来では実戦部隊の駐留地を目的に造成された岡崎飛行場でしたが、ガダルカナル航空戦以降急激に損耗した搭乗員や整備員などの育成を優先すべく、岡崎空は練習航空隊として産声を上げました。
岡崎空は三個航空隊で構成されており、第一及び第二は航空機整備、第三は名古屋海軍航空隊分遣隊より独立した搭乗員育成部隊でした。
開隊が1944年と戦争の趨勢は決しつつある時期ではありましたが、12000名の若鷲を育て上げました。
この12000名は内外の各航空隊に羽ばたき、或る者は空に、或る者は南の海に、そして或る者は基地守備隊とともに陸上戦に散りました。
第三岡崎海軍航空隊
第三岡崎空は名古屋海軍航空隊分遣隊より独立し、練習機定数144機と大きな規模を有した航空隊でした。
その後戦況の悪化により練習航空隊の指定は解除となり三個特攻隊の整備を命じられるに至りました。
1945年6月6日、各特攻隊は笠之原・西条・姫路に進出し出撃の時を待ちましたが、出撃前に終戦を迎え第三岡崎空が特攻出撃をすることはありませんでした。
しかし、岡崎の地で共に訓練に励んだ多くの若鷲が南方の海や空に、そして沖縄の波間に消えたことをここに記します。
この写真は若桜の碑。岡崎より各地に羽ばたいた若鷲達の軌跡をしるしている。柳川瀬公園(豊田市)の一角にひっそりと佇む。
(9) 日本戦跡探訪 伊保原飛行場跡
草薙隊沖縄に向け出撃す
名古屋海軍航空隊と草薙隊
名古屋海軍航空隊(以下名古屋空)は1941年に伊保原飛行場に進出した霞ヶ浦海軍航空隊分遣隊が、1942年に正式に独立し開隊された。
名古屋空の任務は実戦機を配備したような部隊ではなく、練習航空隊として陸上機搭乗員の育成にあたった。
しかし戦況が風雲急を告げ始めた1944年9月より、実戦機である九九式艦上爆撃機による操縦訓練を開始。
翌年には練習航空隊の任を解かれ特別攻撃隊を編成するに至った。
この時に編成された部隊が特別攻撃隊 草薙隊であった。同隊は九九艦爆により編成され、菊水一号作戦から四号作戦に呼応して九州は第二国分基地を延40機が出撃、28機が未帰還(戦死56名)となった(一説には三回の出撃で戦死63名)。
おそらく四号作戦終了時に名古屋空は実戦機、搭乗員を消耗し尽くして解隊されたと思われる。
写真は浄水町にある草薙隊の碑である。
この慰霊碑は沖縄の返還時に生存搭乗員や機付けの整備兵など有志が集い建立した。
石碑の一部を紹介する。
彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ
草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝エルモノナリ
自分の整備した飛行機に搭乗する戦友を機付けの整備兵はどう思い見送ったのだろうか。
菊水が読んだ回想録に登場した機付けの整備兵は当番の機を救うため、機銃掃射の中でも果敢に飛び出して行きました。
自分は飛んで行けない悔しさや仲間を送る悲しさを乗り越えて、精一杯の整備をして帽振れで見送ったに違いありません。
菊水が訪れた際には石碑は綺麗でしたが、現在では関係者の高齢化のため慰霊式典などはされないようです。
どうか草薙隊の方々を忘れないように地域の人々と共に語り継いでいきましょう。
第二国分基地と特攻花
第二国分基地は国分海軍航空隊より発足した本土決戦に備えた基地であった。
元々は練習航空隊であった国分空であったが、戦況が悪化しついに航空総反撃(菊水作戦)が開始されると
状況は一変した。
九州の飛行場は特攻機の出撃地になる他、九州の防空隊や制空隊、一般作戦機が展開するために練習機材は四国の観音寺に移転した(観音寺海軍航空隊)。
特攻花とは地域や歴史によって異なりオオキンケイギクとテンニンギクの二種類存在する。
第二国分基地の周囲に咲いていたのがオオキンケイギクとされており、ここに植えられていたのは第二国分基地がある十三塚原より種をいただいたものらしい(現在は移植等は禁止)。
菊水は立て看板のセリフを読んで何故か涙ぐんでしまいました。
「ホラ、プロペラの音が、風の声が」
今では何代も後のオオキンケイギクかもしれません。しかし、当時のプロペラ音と精一杯に振る帽子の風切り音を現代に伝えてくれているような気がしませんか?
菊水のブログ 自己紹介と目的
今更ながら、、、
自己紹介
菊水は平成8年生まれで現在は社会人として働いています。学生時代は関西に住んでいましたが、どのようなご縁か愛知県でお勤めをする事となりました。
戦跡を巡るようになったきっかけ
もともとは外交安全保障に興味があり、太平洋戦争についても人並みに知ってはいたのですが特段調べようとも思わずに日々を過ごしていました。
こうして時は過ぎ社会人になってからのこと、会社の同僚よりプラモデルの作成を勧められて新たな趣味にと思い、自分の好きな旧軍機の作成を始めました。
初めはただ作るだけだったのですが、作り込むうちにその飛行機の歴史やどんな人が乗っていたのか、どんな戦いに参加したのかを知りたくなり調べ始めたのが始まりでした。
衝撃を受けた出来事
そのような中で菊水が一番衝撃を受けた出来事は休日に突然やってきました。
ご存知の方も多いかと思いますが、YouTubeなどの動画サイトには日本軍機の映像が多数あり、特攻機の動画も存在します。
飛行機の勉強に動画を眺めていたときに串良平和公園(地下壕第一電信室)の動画が目に入りました。特に何も考えずに動画を見て菊水は固まってしまいました。
突入してゆく特攻機の中で何が起こっているのか、考えたことはありませんでした。
特攻機は自身の最期の瞬間まで報告する。搭乗員の方はどのような気持ちで信号機を押したのだろうか。考えだすと終わりが見えませんでした。
これまでも様々な特攻機の映像は見ていたのですが、突入する飛行機に焦点を当てた映像でありその操縦席に人が座って操縦桿を握っていると考えたことはありませんでした。
その動画を見てから実際に特攻機が飛びたった九州に足を運びたいとの思いが芽生えました。
それから私は様々な戦跡を巡り手を合わせるようになりました。また、資料館を訪れてどのような方々が自身の命を犠牲にして我々にバトンを繋いでくれたのかを知りました。
菊水のブログの目的
初めは英霊の供養や自身の勉強に様々なことを調べていた菊水でしたが、ある時同僚より知ったことを自分の中に止めるのはもったいないと言われブログの開設を考えました。
特に戦争関係をタブー視する時代が続いた中で忘れ去られようとしている英霊の事を一人でも多くの人に知ってもらいたい、そして感謝の念を英霊達に捧げてあげてほしいと思い菊水のブログを開設しました。
時代に翻弄されその波間にうずもれているように思います。
よく人間は二回死ぬと言われます。
一回目が物理的な死で二回目が存在を忘れさられることです。
私は自身の命を懸けて今の私達に命のバトンを繋いでくれた方々を二度死なせてはいけないと思っています。
私も最近までは詳しく知らなかったのですが、父方のおじいさんのお兄さんが亡くなっていたそうです。その方は陸軍大尉で爆撃機の操縦員で、離陸時の事故により帰らぬ人となりました。
実家にあるお写真をみると私と同じくらいの年齢だと思うのですが大変立派な方だと感じました。
どうか75年前に未来の日本と自身の家族を想い波間に消えた方々のことを忘れないでください。
全ての戦没者の方々が安らかに眠れるように願い、私の挨拶とさせて頂きます。
(8) 日本戦跡探訪 三重海軍航空隊跡
予科練達が青春を捧げた地
海軍飛行予科練習生
真珠湾攻撃を皮切りに航空戦時代の幕開けを示した日本であったが、時代の最先端機材たる航空機を取り扱うには優秀な人材と適切な訓練を必要とした。
そんな日本海軍の搭乗員需要を支えたのが海軍飛行予科練習生(以下予科練)であった。この制度の始まりは戦前の1929年12月まで遡り、応募資格は満14歳以上20歳未満であった。この制度はその後度々の内容の変更を経て戦争に突入した。
日本の初戦の連戦連勝を支えたのがこの時までにしっかりと錬成できた搭乗員であることは間違いありません。
香良洲 三重海軍航空隊
戦争初戦の連勝により戦線は拡大し、航空機搭乗員の損耗も激しくなると需要がより大きくなることとなった。それまでは土浦海軍航空隊が一手に引き受けていた予科練の錬成はもはや飽和状態となりつつあった。
そのため三重県一志群香良洲に新たに予科練の育成機関である三重海軍航空隊(以下三重空)を編成するに至った。
ただ航空隊とは名がつくものの訓練機や実用機の配備はなく、実機訓練に至る前段階での訓練を行なっていた。この内容が漫画「零戦少年」(著者葛西りいち氏)で細かに書かれている。そのため三重空では海軍兵としての精神や遠泳などの訓練が行われていたようです。
そんな中でもパラシュート訓練は技術も未発達で事故が絶えず殉職者が多かったと言われています。
そんな三重海軍航空隊を巣立った若鷲達は自身の任地に赴きその限りある命を陸に空に海に散らしたのでした。
香良洲歴史資料館(若桜館)
(旧三重海軍航空隊隊門:若桜館)
太平洋戦争も終結し、多くの若者を育て上げた三重空でしたが現在は一部の施設や慰霊碑を除いてその姿は見ることができません。
その歴史を今に伝えるのが香良洲歴史資料館(以下若桜館)と言われる香良洲の歴史資料館です。
ここでは三重空の歴史を伝えるとともに、戦後に戦友会や予科練の同期会が建立した慰霊碑が多数設置されています。
最後に若桜館に設置された四つの慰霊碑より一部を抜き出してご紹介します。この慰霊碑は大空に還った戦友達を偲ぶ石碑です。その壮烈な最期が目に浮かび涙せずにはいられないように思います。
此処は旧三重海軍航空隊の一隅なり
或る者は還らざる索敵飛行を続行
或る者は愛機諸共体当たりを敢行
或る者は飛ぶに翼なく陸に海に特攻出撃に参加
或る者は南海の空に敵機動部隊に肉弾突入
或る者は本土迎撃に敵機との空戦
或る者は訓練中
還らざる機となり
雲流るゝ果てに
或いは南海の波間に
或いは特攻出撃に散華せり
「散る桜 残る桜も散る桜」
戦友よ眠れ静かにそして安らかに波青き香良洲の浜に
最後に写真を幾つかご紹介します。
機上練習機白菊の主翼。訓練機でありながら菊水作戦では特攻機として出撃した。ただし本機は軽量化のため信号装置が隊長機以外なかったためその戦果の全容を知ることは当時できなかった。
特攻艇震洋のエンジンとスクリュー。末期には飛行機の不足から、震洋や回天と言った海上特攻兵器に転科する者も多かった。
香良洲の浜付近にある三重海軍航空隊の慰霊碑。若桜館より少し離れたところにある。
海軍用地であることを示す石標。
新たなる矛 艦上攻撃機 天山
中島 艦上攻撃機 天山
期待の新鋭機
艦上攻撃機 天山(以下天山)は九七式艦上攻撃機(以下九七艦攻)の後継機として期待を持って送り出されました。時期は1943年7月のことでした。
実は天山試作機の初飛行は1941年3月でしたが、中島飛行機が選定した護エンジンが不調でなかなか審査が通らず時期がずれ込みました。
そんな天山でしたが開戦以来いよいよ第一線機としては陳腐化が深刻な九七艦攻を更新するべく、実用試験前より130機を発注するような状況でした。
最終的に海軍は中島の提案した護エンジンを三菱製火星エンジンに改装した天山の開発を指示しました。戦争中とは言え、中島の技術者達の悔しさは計り知れないものだったでしょう。
(天山のプロペラ 鹿屋航空基地資料館にて。海面を叩いて変形している。恐らく被撃墜された機体と思われる。)
(火星エンジンの大きさがわかる)
遅すぎた新鋭機
ようやく実戦に送り込まれた天山の初任務は激化の一途を辿るブーゲンビル島沖航空戦でした。当時はまだ日本航空戦力が多少健在な時期ではありましたが、大きな戦果をあげることはできませんでした。
恐らくこれは雷撃という任務の特殊性にあるように思います。ミッドウェー海戦における米雷撃機の損害の大きさにも見てとれます。
ここで雷撃に至るまでの流れを掴みましょう。
① 艦上戦闘機が敵艦上空を制圧する
②艦上爆撃機が敵対空砲を破壊する
③艦上攻撃機が防御の薄くなった艦隊に突入する
つまり雷撃は最後の仕上げと言ったところでしょうか?
とくに攻撃機(雷撃機)は重い魚雷を抱いて超低空を低速で飛行します。また一度雷撃に入ると進路を変更することもできません。
つまり、攻撃機が生還するには絶対的制空権と敵対空砲に対する多少の被害が必要になるわけです。
1943年7月、多少は健在だった航空戦力ではありましたが、天山が活躍するには既に厳しい状況であったと言わざるを得ないでしょう。
最終的に白昼堂々の雷撃は被害が大きすぎるとして、少数機による夜間雷撃にシフトしていきました。
(夜間雷撃用に電探と電波高度計が3機に1機が装備された)
(後部機銃がカッコイイ)
その後天山は攻撃機としての運用の他、対潜哨戒、爆戦誘導、索敵任務等多種多様な任務に対応し、大きな損害を出しながらも日本海軍の活動を支えました。
天山の問題より日本海軍の問題
こんな事を書くと批判を受けそうですがさまざまな方面より考察します。
日露戦争で活躍した軍人である東郷平八郎は、軍縮会議にあたって主力艦の保有制限について意見を問われた際に「主力艦に制限はあっても訓練に制限はない」と発言したとされています。
太平洋戦争前の日本は制限された軍備を最大限に活用するべく、優秀な人材を集め錬成を怠りませんでした。また、中国軍との戦闘で実戦の経験も豊富でした。恐らく日本の初戦における快進撃に大きく寄与したことは間違いありません。
しかし、ガ島航空戦等を通してベテランが消耗した後の後継者育成には失敗したように思います。
というよりも、日本に大戦中に人材を育て上げる余裕がなかったという事だと思います。
また航空機も新機材が次々に送り出されたこともその錬成を困難にしたように思います。
天山に関してもせっかく装着された電探も使用方法の訓練が追いつかず、アンテナをノコギリで切り落とした事もあったようです。
また、台湾沖航空戦の際にも戦爆連合で出撃したは良いものの、一度も共同戦闘訓練をしていなかったなど練度の低下が著しかったのも天山の活躍を阻んだのではないでしょうか。
(7) 日本戦跡探訪 鶉野飛行場跡
沖縄の海に散った白鷲たち
兵庫県 加西市 鶉野飛行場
鶉野飛行場の始まりは川西航空機姫路製作所組立工場の専用飛行場として産声を上げました。
戦争中期以降は海軍の姫路海軍航空隊(以下姫路空)、筑波海軍航空隊(以下筑波空)が進出し、攻撃機搭乗員の錬成や特攻隊(白鷲隊)が編成されました。
姫路海軍航空隊
姫路空は1943年に開隊され、艦上攻撃機搭乗員の養成を行いました。艦上攻撃機とは主に空母より発艦し、雷撃、水平爆撃、偵察に利用されました。
また、空母だけでなく地上基地においても広く活躍しました。
(九七式艦上攻撃機)
(艦上攻撃機 天山 ちなみに菊水は天山が一番好き)
姫路空は訓練部隊でしたが中期より実戦部隊として改編され、なかでも技量優秀な練習生より編成された白鷲隊が菊水作戦に参加しています。参加延機数は20機で63名の搭乗員が串良基地を経由して突入しました。
1945年5月4日の攻撃で作戦機を全て喪失した姫路空は翌5日で解隊となり短くも雄々しい歴史に幕を閉じました。
筑波海軍航空隊
筑波空は当初は霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊を元に発足しました。正式に筑波空となったのは1938年12月15日で以後は予科練の教育に努めてました。筑波空は特に戦闘機専修の訓練を行いました。
(筑波空にも配備された零式艦上戦闘機)
(迎撃用に配備された紫電)
しかし、戦局が悪化した1944年より練習機による訓練から実戦機による訓練過程に切り替えが行われ、教官により迎撃部隊が編成されるに至りました。
1945年2月20日、ついに筑波空にも特攻隊編成命令(筑波隊)が発令され、4月6日(菊水一号作戦)から沖縄方面に突入を開始します。
筑波空はこの後菊水十号作戦まで作戦に呼応し、6月22日の出撃が最後の特攻出撃となりました。
筑波隊は作戦参加将兵64名のうち55名が終戦までに沖縄の波間に散りました。
現在の鶉野飛行場
(無蓋掩体壕)
(高射機銃陣地)
現在の鶉野飛行場跡ではかつての戦跡を復元、維持しつつ後世に歴史を伝える場となりつつあります。
菊水は機銃陣地でふと思いました。
自分が陣地から見上げた空や山々を先人達も眺めたのかと、、、。
もう帰らない戦友をどのような気持ちで見送ったのでしょうか?
頭上の護り 九七式戦闘機
九七式戦闘機
近代陸軍戦闘機のご先祖さま
幕末よりようやく産業革命に足を踏み入れた日本ですが、航空機開発にはかなりの遅れがありました。
そんななか中島飛行機が世に送り出したのが九七式戦闘機(以下九七戦)で、ようやく列強に追いついたのでありました(スピリットファイアも同世代)。
一見すると引き込み足でもない古めかしい戦闘機に見えますが、頑丈な固定脚は整備状況の悪い飛行場での運用を可能にしました。
ただ、あまりに保守的な設計は九七戦の陳腐化を予感させました。
実戦での九七戦
九七戦は日中戦争より戦線に投入され、輸入した多種多様な戦闘機を駆る中国空軍を圧倒しました。
またノモンハン事変ではソビエト空軍に対し勇戦し、制空権を確保出来たことで陸軍の行動を支えました。
なかでもノモンハン事変でのソビエト空軍による一撃離脱戦法に対し、本機が苦戦した経験は後々の陸軍戦闘機開発を柔軟な物としました。
まさしく九七戦は陸軍兵の頭上の護りだったのです。
一式戦闘機 隼
三式戦闘機 飛燕
四式戦闘機 疾風
五式戦闘機 (右側)
二式戦闘機 鐘馗が抜けているのはご愛嬌で、、、。
なかでも一式戦闘機隼は九七戦持ち前の保守的な手堅い設計を受け継ぎ、大戦を通して活躍しました。
陸軍に多大な影響を与えた九七戦の遺伝子は一式戦闘機以降の陸軍戦闘機に受け継がれていきました。
九七戦の最期
陸軍に多大な貢献をした九七戦でしたが、大戦末期には他の陸軍機と同様に爆装戦闘機となり、米機動艦隊が布陣する沖縄の空に挑んでいきました。
出力の低い九七戦では爆装を施すと離陸すら精一杯であったようです。
現在では博多湾より引き上げられた九七戦が筑前町 太刀洗平和記念館でその翼を休め、搭乗員達と共に護り抜いた日本を見守っています。