菊水のブログ

太平洋戦争などに興味がない人や知識がない人に、少しでも先人の思いを伝えるために開設しました。どちらかと言うと詳しい人向けではないのですが、還らざる先人の軌跡をご紹介できれば幸いです。

「四国における旧海軍戦跡調査」1

「四国における旧海軍戦跡調査」
 
特攻機 神龍(地上発射型有人ロケットグライダー)

今では知る人もほとんどいない特攻兵器が神龍です。
航空機特攻や特攻艇、有人魚雷、小型潜水艦は知名度がありますが、この神龍を知る人はなかなかいないでしょう。

 

類似の兵器としては陸攻(双発陸上攻撃機)に搭載して使用する桜花がある。
桜花も母機の被害が甚大なことから射程の延伸と地上発射型が開発されて数カ所の地上発射基地が現在も残る。

ちなみにこの地上発射基地は京都の比叡山にあり、現在は比叡山ドライブウェイがその一部である。

 

この神龍は桜花の簡易版的なものであり、射程も非常に短い上に爆弾搭載量も少ない。
桜花が対艦特攻を志向したのに対し神龍は上陸した敵地上部隊を攻撃目標としていた。

 

おそらくトップの写真のように敵部隊の上陸地点付近に隠蔽して布陣し、敵部隊の上陸後に隠蔽陣地より運び出して使用すると思われる。

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暫くぶりに

このようなブログを見られている風変わりな方はいらっしゃるのでしょうか?

 

はてさて此方のブログは私が訪れた戦跡をご紹介していたのですが、最近は更新をしておりませんでした。

 

これまでは簡単ながら解説なども付けていたのですが、なかなか調べる時間もなく更新が滞っておりました。

 

これからは当ブログは私の日記帳のような内容とし、記録として残す場とさせていただきます。

(18) 日本戦跡探訪 全国海洋戦没者慰霊碑

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君 今ここに甦る

伊良湖岬

現在デートスポットとして名高い伊良湖岬ですが、その歴史は古く観光スポットとして有名な恋路ヶ浜の名が登場したのは、江戸時代(1808年)の和歌でありました。

また伝説として、身分差の恋故に都を追われた男女がこの地に暮らしたからと言われています。

 

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全国海洋戦没者慰霊碑

全国海洋戦没者慰霊碑が建立されたのは昭和47年11月3日、第一機動艦隊生存者潮会と戦没者遺族有志1588名が発起人となりました。

 

この慰霊碑は機動艦隊戦没者の招魂碑として、また陸海軍戦没者の御霊を弔うために建立されました。

 

現在では11月3日を全国海洋戦没者合同慰霊祭の日と定めて慰霊祭を行っています。

 

君 今ここに甦る

この慰霊碑には「君 今ここに甦る」と記されています。

「君 今ここに甦る」とは戦争で亡くなってしまった大切な人に、もう一度会いたいというご遺族の意思が現れている文だと私は感じました。

 

しかし、終戦から早くも76年が経ち当時を知る人も少なくなってしまいました。またそれに伴い英霊を偲ぶ人も年々少なくなっています。

 

昨今、偶然にも喜界島近辺において旧軍機が発見され、初の海中からの遺骨収集となりました。

結果としては残念ながら遺骨の発見には至りませんでしたが、大きな注目を集めたことは大変に喜ばしいことです。

 

最後に「全国海洋戦没者伊良湖岬慰霊碑讃歌」から一部をご紹介して終わりといたします。

 

思えば海洋戦線で

機動艦隊輸送船

武運拙く壮烈な

玉砕遂げた戦友の

 

あわれ友は海底に

深く眠りて収容の

術も手段もすでになく

遺品の証遺さずに

 

戦終えて時は過ぎ

英霊合祀の議は熟し

建てし碑ふさわしく

君 今ここに甦る

 

海底に艦や愛機と共に眠る英霊の魂が無事に故郷に帰れることを願っています。

以下は写真のご紹介です。

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補足 沖縄戦と牛島大将の選択

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敗北を早めた攻勢

既定路線であった南部戦闘

第32軍はなにを求められたのか

現在でも議論の話題となり、牛島氏を批判する上で槍玉に挙げられるのが「首里防衛線の放棄に伴う南部撤退」です。

しかし、先の「牛島陸軍大将の英断」でも述べたように、沖縄本島南部が主戦場になる事は米軍上陸以前より判明しており、「南西諸島警備要領」にはそれに合わせた住民の疎開が明記されていました。

その上でも住民被害が生じてしまったのは、着々と到着する増援部隊への安心感と、北部の環境が過酷であるということ。

そして頼る所を失った住民が軍部隊に同行したため戦闘に巻き込まれ、最終的に終わりない戦闘命令が下されたために、投降の機会も失ってしまったためでした(牛島氏は軍部隊に対しては最後の一兵まで抗戦する事を命じているが、非戦闘員には命じていない)。

軍の作戦計画とその推移

南西諸島警備要領(以下、南西要領)から本島北部は戦闘地域とせず、首里を主抵抗線として作戦計画は練られており、それに合わせた陣地構築がなされていたようです。

一方、南西要領からもわかるように南部は当初より戦闘地域になることは想定されており、特に喜屋武半島は地形が堅固であり、第24師団の物資も集積されておりました。

そしてこの時に第32軍に求められていたのは、華々しい勝利でも美しい散り際でもなく、どれだけ苦しかろうとも1日でも抵抗を続け本土決戦の時間を稼ぐ事でした

 

そんな日本軍作戦計画に大きな狂いが生じたのは5月3日夜より開始された日本軍の総攻撃でした。

この総攻撃は度重なる中央からの催促と、長勇参謀らによる「攻撃戦力のあるうちに戦況打開」という半転攻勢の進言により決行されました。

しかし、一大砲撃より開始された総攻撃は米軍の圧倒的な火力により逆襲され砲火力の大部分と参加戦力に大打撃を受けました。

第32軍の不一致

日本軍が不必要な攻勢に転じてしまった理由は、上級将校の多くがこの戦いがどういった戦いであるのかを正確に理解していなかったためではないかと筆者は考えます。

しかし、ただ一人確実に状況を正確に理解して目的に合わせた作戦を計画していた人物が八原博通参謀でした。

まず状況認識としては沖縄において米軍に勝利することはまず不可能であり、本防衛戦の主目標は米軍に可能な限り損害を強要し時間を稼ぐ事が求められました。

つまり、戦う前から敗北は必至でありどれだけ長く戦えるかが問われていたのです。

にも関わらず、第32軍は不要な攻勢に出て戦力を大きく喪失し、結果として敗北を早める事となりました。なかでも攻勢時の大砲撃は限りある弾薬を惜しみなく投入しており、持久戦と逆行することとなりました。

結果として筆者は軍中央や第32軍の一部高級将校は今どのような状況なにが求められているのか、どのような手段で対処すべきかの理解が浅かった、もしくは頭が追いつかなかったのだと思います。

簡単にまとめると下記のようになる。

(状況)

戦力差は圧倒的で沖縄における勝利は望めない

(求められること)

1日でも長い抗戦と可能な限りの米軍への損害の強要

(手段)

限られた人員装備、弾薬を節約し縦深的な築城で持久戦に持ち込む

ただし、第32軍の擁護をするならばどのような状況であろうとも、人は一筋の光を追い求めてしまうということだと思います。完全に自分や部下の生を捨てて現実を受け容れることは容易ではありません。

途中までは迷走した沖縄戦でしたが、攻勢の失敗後は八原参謀を中心に結束して持久戦に努めます。

そして6月23日、牛島大将は自身や部下将兵の生を断ち切り終わりない抵抗を命じました

牛島氏の亡き後も沖縄守備隊は命令を守り抗戦を続け、沖縄守備隊が正式に降伏したのは1945年9月7日、陸海軍将兵約94000人、住民90000名以上の死者を出した沖縄戦も遂に終結となりました。

 

首里陣地からの撤退と批判

撤退の決定

5月3日の攻勢失敗後も粘り強く抵抗を続けた32軍でしたが、予備兵力や砲兵の消耗も重なり首里防衛線の維持が困難になりつつありました。

5月21日に軍参謀を招集した時点で運玉森が攻略されれば、首里防衛線が崩壊する危機に瀕しており早急に対策が求められました。

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(運玉森と首里の位置関係を表す図)

この会議で示された現実的な方向性は首里陣地で決戦(以下首里案)をする、もしくは喜屋武半島へ撤退し持久戦に持ち込む(以下南部案)の二案でした(知念半島も考えられた)。

なかでも喜屋武半島への撤退を強く主張したのは、徹底した持久戦を主張していた八原参謀でありました。

一部の将官首里案を推薦しますが、未だに5万名はいると思われる部隊を首里に展開するには手狭であり、砲爆撃による格好の的となると予想されました。

一方で南部案であれば喜屋武半島には第24師団の物資がある他、洞窟などが多数あり海岸線は切り立った崖で防御に優れました。

会議の翌日である5月22日に牛島大将の裁可が行われ、首里陣地に篭って玉砕することはせず、喜屋武半島に撤退して持久戦に持ち込むこと、主力の撤退は29日となりました。

また、それまでに物資と負傷兵の後送が行われることとなりました。

撤退の経過

結果から申し上げると日本軍の撤退(陣地転換)はほぼ成功し、喜屋武半島に再度防衛線を構築する事に成功しました。

22日 牛島大将が南部案を裁可

22日以降 物資・負傷兵の後送開始

24日 米軍の一部 那覇市内に突入

26日 米偵察機が日本軍部隊の大規模な移動を確認

   追撃戦開始(首里包囲網が形成間近)

27日 第32軍首脳部首里より撤退開始。

29日 沖縄県の住民対策会議で住民の知念半島への退避を命令。

30日 第32軍首脳部が摩文仁へ撤退完了。

以降は撤退部隊により防衛線を再構築し、3週間に渡って抗戦した。

(注)おそらく24日時点で殿部隊が突破されたため、主力の撤退を早めている。

こうした動きの中で根強い批判があるのが、知念半島への住民の避難指示が29日までずれ込んだことです。

個人的に注目しているのは軍の首里撤退をどのタイミングで沖縄県と共有していたかである。

首里撤退は絶対に成功させねばならず、情報が漏洩した場合には激しい追撃戦を受けることとなる。

いくら沖縄県といえども撤退する事を共有することは憚られる。また仮に情報が漏洩せずとも軍と異なり統制が取れずに住民が大規模に知念半島などへ退避を開始すれば、撤退の予兆として捉えられるかもしれない。

難しい判断を迫られた事に違いありません。

 

歴史とは後世の人が自身の主観や思想の色眼鏡をかけて過去を読み解いた物だと筆者は思います。

かく言う筆者も色眼鏡をかけた一人であるのですが、どうにか少しでも当時の先輩方の視点に立てないかと思う次第です。

牛島満陸軍大将や指揮下の将兵達の思いは、我々現代人が先人を偲び伝え、感謝を捧げる事で悠久の時を生き続けると信じてやみません。

最後となりますが陸海軍の全戦没者将兵、商船隊等協力戦没者の方々、戦没市民及び連合国戦没者の御霊の安からんことを願い本文を終わりとします。

 

 

 

 

 

 

 

沖縄戦 牛島満陸軍大将の英断

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己を滅して 悠久の大義に生きる

 

はじめに

皆様は牛島満陸軍大将(以下牛島氏)をご存知でしょうか?

牛島氏は沖縄戦における日本軍(第32軍)の指揮を執り、圧倒的な戦力差でありながら米軍を沖縄に2ヶ月に渡って拘束した名将です。

一方で戦後には首里防衛線の放棄に伴う南部撤退により、住民被害を生じさせたとして非難を浴びることもある人物でもあります。

 

なぜ突然このような文章を作成したのか。理由は戦後の価値観や目線による批判や心ない言葉を紙面や電子記事で目にするようになったためです。

何事においても多種多様な意見があるのは素晴らしい事です。

しかし、最近の日本には国のため、家族のために一度きりの命を捧げた先人の方々に対しあまりにも冷たく、どこか他人事のように見ているように見えます。

日本は古くから御恩と奉公という言葉があります。

意味合いは異なりますが、私たち後世の人間は先人の皆様の命を懸けた行動に報い、その御霊を弔うことがあって然るべきではないでしょうか?

 

最後になりますが、陸軍大将牛島満氏と指揮下将兵、そして危機に応じて陸海軍に協力された沖縄県、県民の生命を守るべく戦火に身を投じた行政職員に永久(とこしえ)の感謝とその御霊の安からんことを願い下記よりお話を始めさせていただきます。

 

私の稚拙な文章ではありますが、国難において己を滅し悠久の大義に生きることを選択した牛島満氏の決断と最期、そしてその選択の意味をご説明できればと思います。

 

陸軍大将 牛島 満

牛島満(うしじま みつる)氏は1887年7月31日に旧薩摩藩士で当時は陸軍中尉だった牛島実満の四男として、東京にて産まれました。

しかし、実満の急逝により母は郷里であった鹿児島県鹿児島市に帰郷、学業は非常に優秀だったようで難関校であった第一鹿児島中学校(現 鹿児島県立鶴丸高等学校)に入学し、父と同じ軍人を目指していたようです。

その後は1904年に陸軍幼年学校、1906年には陸軍士官学校に進み1908年に歩兵科を二位の成績で卒業しました。そして1912年に陸軍大学校に進み1916年陸大28期を56名中51位で卒業します。この時の同期にはマレーの虎と呼ばれた山下奉文終戦の立役者とも呼ばれる田中静壱がいます。

 

陸大卒業後はシベリア出兵などを経て平和な時代に入ります。軍縮の流れもあり母校である鹿児島第一中学校へ配属将校として赴きます。この配属将校は宇垣軍縮で有名な宇垣一成が実施したもので、従来の予備役が行うものを現役兵を配属するものでした。この時に牛島氏は教育者としての素養を養い、のちに陸軍の教育者として頭角を現します。

 

時代は進み平和な時代は終わりを迎えます。日本はまもなく日中戦争に突入し牛島氏も中国大陸に派遣されました。

この時牛島氏が指揮することになった部隊は、226事件の首謀者であった栗原安秀中尉の所属部隊であった歩兵第一連隊でした。

牛島氏は懲罰的な中国大陸派遣に荒んだ部隊をよくまとめ上げ、トラックに乗って部隊を巡回して兵を労いました

1937年に少将に進級した牛島氏は第六師団歩兵第36旅団長に就任します。この部隊は都城、鹿児島の二個歩兵連隊により編成されており、牛島氏は郷土部隊の指揮官になったのです。

同旅団は支那事変の勃発を経て中国大陸に派遣され下馬嶺、石家荘、南京戦と勝利を収め中国軍からは「鬼将軍」と呼ばれ恐れられました。

その後、沖縄方面の第32軍司令官になるまでは牛島氏は陸軍の教育者として活躍しました。

1939年に陸軍予科士官学校、1941年には満州陸軍公主嶺学校、1942年には陸軍士官学校の校長を勤め上げました。

なお、牛島氏が公主嶺学校校長を務めていた時に対米戦開始を聞いた牛島氏は驚愕し、戦争のいく末を憂慮していたようです。

この認識は日本が連戦連勝中でも変わることはなく、陸軍士官学校校長在任中の1942年には米国の豊富な物量を冷静に分析し、日本軍の戦果を過大に評価しないよう訓示をしていました。

残念なことに牛島氏の読みは的中し、ミッドウェー海戦の敗北を境に日本軍は敗戦へと直走り始めます。

牛島満大将(当時は中将)の運命を決める決定が下されたのは1944年8月、沖縄方面第32軍司令官を命じられた牛島氏は羽田空港より沖縄へと飛び立ちました。

沖縄着任後は住民の疎開と陣地構築に専念した牛島氏でありましたが、有力部隊の引き抜きと南方での島嶼戦の蓄積もあり防衛体制の方針は二転三転し、構築は容易ではありませんでした。

米軍の上陸後、第32軍は敢闘しますが5月末には首里防衛線より南部に陣地転換し継戦しました。

そんな牛島氏の最期は1945年6月22-23日、摩文仁司令部豪で自決されたのでありました。

牛島氏は沖縄戦にどう臨んだか

ここからは牛島氏が沖縄戦にどのように臨んでいたか、またそれは戦闘中にどのように作用したのかを考察したいと思います。

1944年8月に沖縄方面第32軍に任命される以前より、牛島氏は「私だけがのうのうと教壇に立っていては相すまぬ。戦死覚悟で御奉公したい」と家族には話していたようです。

現在では沖縄県民を軽視していたように評価される牛島氏ですが、そのような事はまったくなかったと思われます。

県民の疎開

沖縄県民の疎開は牛島氏の着任以前より開始されていましたが、着々と到着する日本軍部隊による安心感もあり、県や軍による説得にも関わらず疎開はなかなか進みませんでした(なんだかコロナ禍の日本にも通ずるところがありますね)。

また1944年8月には米潜水艦が日本近海を跋扈していたこともあり、22日には対馬丸事件が発生。すでに安全な県外への疎開は困難になりつつありました。それでも1945年3月までに本島から約8万名八重山列島より約3万名疎開させることに成功しました。

当初から想定されていた南部での戦闘

牛島氏の着任後の12月、中央より「皇土警備要領」が通達されます。これは簡単に解説すると、これから戦闘が予想される地域(南西諸島、台湾など)の住民を可能な限り戦力化し、非戦闘員はあらかじめ退避させるという物でした。

これを受けて八原参謀が作成した「南西諸島警備要領(以下南西要領)」を裁可しました。ここで牛島氏の人柄に触れると、牛島氏は部下が作成した作戦や要領などには口出しをせず、責任のみ自分が取るという方だったようです。一見無責任にも見えますが、部下を信頼し無用な口出しはしない良い上司だったといえます。しかし、後にこの方針により牛島氏率いる第32軍は手痛い失敗をしてしまいます。

話を戻して南西要領は中央の要領に沿ったものでしたが、追加された点と配慮がありました。

南西要領の追加点

・非戦闘員は45年3月までに戦闘地域にならないであろう北部に疎開する

・各部隊は所属自動車や舟艇で疎開を可能な限り支援する

・非戦闘員は戦闘開始直前まで陣地構築や農耕に従事し、戦闘直前に急速に北部に退避する。

・県知事は島北部に疎開民のための食糧や居住区を整備する

上記のことからわかるように、南部での戦闘は想定外ではなく既定路線であったことがわかります。

また、南西要領の作成にあたり八原参謀や牛島氏はサイパン島のような住民犠牲は避けねばならない事も共有していました。先進国であるアメリカが一般市民の虐殺をするとは考えにくく、主戦場として想定される南部に住民を残すことに否定的でした。

この南西要領に則り食糧の確保に邁進した島田叡県知事(島田知事も調べれば調べるほど立派な方で、この時代の人は自分が出来ることに精一杯挑んでいたのだと思います)や第32軍でしたが、マラリアなどの蔓延る北部への疎開は遅々として進まず、戦闘開始直前までに疎開したのは予定の三分の一である85000人でした。

その後、3月までに非戦闘員は北部に退避とされていたものの、米軍上陸直前の3月31日に北部への移動は禁止となりました。

結果として多くの住民が以前として戦闘地域に同居する事となり、軍は行き場のない住民を本当南部へ移動させるよう要請しました。

ただ、ここまで見てわかるように牛島氏は出来うる限りの努力を果たしていたと言えるのではないでしょうか?

また、牛島氏はあくまで軍司令官であり防衛の責任者であります。大変な築城作業の傍で軍は出来うる限りの事をしていたと私は考えます。

以下の文でもっと踏み込んで考えてみましょう。

リアリティに見る軍隊と非戦闘員

一般に軍隊は国家とそれに属する生命と財産を守るものだと思われがちですがリアルには異なります。

軍隊は軍隊を守ることで国民を守ることが出来るのです。

例えるとこうなります。

現在、二発のミサイルが日本に向かっています。一発は市街地に向かっており、もう一発は自衛隊の重要な基地に向かっています。しかし、迎撃ミサイルが一発しかない場合、どちらを迎撃すべきでしょうか?

 

意地悪な質問ですね。

正しい答えはないかもしれません。

一般市民感情的には市街地に向かうミサイルの迎撃を優先して欲しいかもしれません。

しかし、軍事的には戦い続けるために基地を守らなくてはならないでしょう。

そしてこの認識のズレが住民被害を拡大させたような気がします。

 

まず、そもそもとしてどこの軍隊も好き好んでなんの軍事的価値もない非戦闘員を攻撃はしません。

つまり、攻撃を受けるのは軍隊になります。

 

戦果に焼け出され身一つで頼るところといえばもはや軍隊しかなさそうではありますが、攻撃対象である軍と同行したことで被害を拡大させたようにみえます。

おそらく牛島氏としては軍と非戦闘員を完全に切り離したかったのだと思います。

こう推察する理由は二つあります。

一、島田叡県知事との最後の会話

「諸君らは文官で軍人ではないのでここで死ぬ必要はない」との会話と住民の戦闘地域外である知念半島への避難指示。

 

二、残存する日本軍部隊に対して、「祖国のため最後まで敢闘せよ、生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし」。

 

牛島氏は冷静な判断から沖縄戦開始前より沖縄戦は時間稼ぎの戦いであることはわかっていたと思われます。

そうした中で、軍部隊に対しては最後の一兵まで抗戦し時間を稼ぐよう指示する一方、開戦前より住民に対しては投降の可能性を残していました。

しかし、思惑通りにならず多くの住民が戦闘地域にとどまり投降の可能性がない軍隊に同行してしまった事が悲劇を生んでしまいました。

最後の選択

5月30日の首里撤退後敢闘すること約三週間、第32軍は最期の時を迎えようとしていました。

無事に撤退した部下将兵30,000人も激烈な戦闘で消耗し、指揮掌握もできないようになりました。

17日にはパーシバル中将より降伏勧告がありますが、これには応じませんでした。

戦局はもはや挽回は不可能ですが、牛島氏は自分の使命を忘れてはいませんでした

 

部隊の掌握も難しくなった18日、牛島氏は各部隊にこれ迄の感謝と以後の方針を示す決別電を送りました。

 

発 第32軍司令官 牛島満

 

親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし

 

内容は兵の労を労う牛島氏らしい優しさと、降伏をよしとしない非常に厳しい内容でした(文は長野参謀が作成し牛島氏が裁可した)。

この決別電の後に牛島陸軍大将は部下と自決しました。享年57歳でした。

牛島陸軍大将は最後に自分が自決することでもう命令は覆らない、終戦まで続く悠久の大義に部下将兵と生きることとなります。

 

小の犠牲で大を守る

並の人にはこの小の中に自身や大切な部下たちを組み込み判断することは出来ないでしょう。

己を滅し

悠久の大義に生きる

 

沖縄守備隊が決死の覚悟で稼いだ貴重な時間、そして米軍に対して日本軍部隊が未だに精強であるとの認識が本州への上陸を遅らせて多くの命が救われたと信じてやみません。

牛島陸軍大将率いる第32軍と沖縄守備隊は戦後も抵抗を続け、南西諸島軍部隊の正式な降伏は1945年9月7日のことでした。

この日をもって牛島氏と麾下将兵の戦争はようやく終わりを迎えることとなりました。

 

非常に長文でありました。

読みにくい内容で申し訳がありません。

重ねてになりますが、全戦没者の御霊の安からんことを願い本投稿を終わります。

(17) 日本戦跡探訪 小松海軍航空隊跡

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飛ぶに翼なく歴史に幕を閉じる

小松海軍航空隊

日進月歩で進化する航空機材はより洗練された搭乗員や管制、戦術、指揮を必要としました。

日本海軍ではより優秀な人材を集めるべく、海軍予科飛行練習生制度を確立し、航空戦力が必要とする人員の育成に励みました。

そうした中で、1943年の予科連甲種13期は合計で20,000名を超え、従来の土浦、三重、鹿児島の練習航空隊では錬成を賄いきれずに新たな練習航空隊として小松海軍航空隊が開隊されました。

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写真は一式陸上攻撃機(通称 一式陸攻)

小松海軍航空隊は航空兵科の中でも陸上攻撃機(一式陸攻や銀河)の運用を教育する部隊でした。

ただ開隊時期は1944年9月であり、戦いの趨勢は決しつつありました。また飛行場の完成はさらに後の11月のこととなり、1945年3月1日には予科連教育自体が凍結となりました。

その後は決号作戦(本土決戦)に備えた戦力の整理のために新設された山陰海軍航空隊小松飛行場に開隊されると6月30日に短すぎる歴史に幕を閉じました。

 

小松飛行場と山陰海軍航空隊

小松飛行場の落成は1944年11月とフィリピン方面では特攻が開始されており、戦況は逼迫した状況でした。

しかし建設開始時期は1941年8月に海軍が用地取得をしており、本格的な着工は1943年4月でした。

小松飛行場を建設するに至った理由は、太平洋戦争の開始により太平洋側の基地に空襲(おそらくドーリトル空襲)を受けたことが直接のきっかけとされており、本飛行場の役割は航空機の疎開先だったようです。

実際に1944年9月には迎撃戦闘機の配備により基地を追われた豊橋海軍航空隊陸攻部隊が本飛行場に疎開しています。

その後も山陰海軍航空隊が開隊されるとより疎開基地としての機能が重視されます。

この山陰海軍航空隊は沖縄戦の戦況不利により、本土決戦は避けられないとして航空戦力を温存し、最後の戦闘投入までの訓練を行うべく開隊された部隊です。

部隊はかなりの大所帯であり、小松の他に美保、峰山、姫路などで戦力の整理を行いました。コレに合わせて練習航空隊であった峰山海軍航空隊姫路海軍航空隊が解隊となりました。

最後に現在の小松飛行場付近の遺構を写真にてご紹介します。

 

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小型機用の掩体壕が残っています。
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このカマボコ型の建物は発電所跡らしいです。
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小松市立 空とこどもの絵本館

昔の建物で右上のでっぱりは防空監視哨だったみたいです。
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最後に石川県護国神社に参拝。さまざまな慰霊碑があり厳かな雰囲気でした。

(16) 明野陸軍飛行学校天竜分教場跡

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その歴史、今は見えず

明野陸軍飛行学校 天竜分教場

陸軍航空の歴史は古く、国内において航空機操縦員の育成を始めたのは1912年7月のことでした。

ライト兄弟ライトフライヤー号の飛行を実行したのが1903年12月17日、徳川好敏大尉が日本で初めて動力飛行を成功させたのが1910年12月19日です。

 

そんな陸軍航空の基礎になったのは、当時航空機材の輸入先であったフランスでありました。

時期は1918年7月のこと、フランスより航空機の運用と製作に関する指導を行う旨の申し入れがありました。

翌年にはジャック=ポール・フォール大佐が率いる航空教育使節団(フランス航空団)が来日、実践的な航空教育改革が進みます。

そうした中で登場したのが陸軍航空学校(所沢)でした。明野陸軍飛行学校はこの陸軍航空学校の明野分校を前身とします。

つまり、明野陸軍飛行学校天竜分教場はさらに枝分かれした陸軍航空教育機関でありました。

成長拡大する航空兵需要とそれに対応し、明野陸軍飛行学校の分教場は5箇所に及びました。

分教場一覧

横芝分教所(千葉県)

天竜分教所(静岡県)

原ノ町分教所(福島県)

北伊勢分教所(三重県)

佐野分教所(大阪府)

 

陸軍航空の教育の詳しいお話は明野陸軍飛行学校を訪れてからに致します。

昨年からのコロナ禍により、戦没者慰霊の式典も規模を縮小しているようです。

自らの守るべき者(国や自身の信念も含む)に一度きりの命を捧げられた先人の皆様に永久の感謝と、その御霊が安らかであるようにお祈りを申し上げます。

 

残りは写真といたします。

この三角形は格納庫の跡のようです。旧陸海軍航空を受け継いだ航空自衛隊よりF86を貸与されて展示されています。

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