(1) 日本戦跡探訪 鹿屋海軍航空基地
九州最大の特攻隊出撃拠点
海軍の町 鹿屋市
鹿屋といえば現在でも海上自衛隊の鹿屋基地がある。鹿屋市はどちらかと言うと都会ではないが、自衛隊指定の散髪屋があるあたり現代でも海軍の町と言っても差し支えないと思います。
鹿屋海軍航空隊(第七五一海軍航空隊)
鹿屋海軍航空基地を根城にする鹿屋海軍航空隊(以下鹿屋空)は1936年に開隊され、外戦作戦実施部隊として活躍、日中戦争より戦闘機部隊を併設する陸攻(陸上攻撃機)部隊は渡洋爆撃に活躍しました。
外戦作戦実施部隊とは戦時には国外に展開して作戦を遂行する部隊で、ラバウルで有名な台南空や横空こと横浜海軍航空隊があります。
鹿屋空は後に太平洋戦争が開戦すると陸攻部隊の一部を南方に派遣し、派遣部隊はマレー沖海戦に参加するなどしました。
開戦翌年の1942年に海軍航空隊の再編により第七五一海軍航空隊と改称され、戦闘機隊は分離独立し第ニ五三海軍航空隊となりました。
改変後はラバウルやテニアンで戦力を払底し、1944年6月にあ号作戦(マリアナにおける米艦隊迎撃戦)で全戦力を喪失し翌7月10日に解隊となりました。
七五一空転出後の鹿屋基地では、1942年10月1日に七五一空に改称した鹿屋空より旧名を頂いた鹿屋海軍航空隊(二代目)が開隊されました。
新鹿屋空(仮称)は外戦部隊であった旧鹿屋空とは異なり、艦攻や艦爆の搭乗員の錬成部隊として設立されました。
その後1944年には陸上攻撃機の搭乗員錬成に変更されたのも束の間、戦況の悪化に伴い九州地区が攻撃を受けるようになります。
最終的には菊水作戦に呼応した実戦部隊に基地設備を譲り渡すこととなり、練習部隊の機能を豊橋海軍航空隊に移転し1944年7月10日、奇しくも七五一空と同じ日にその歴史の幕を閉じました。
鹿屋海軍航空基地と菊水作戦
大戦末期には九州の各基地は沖縄防衛の最前線基地として使用されました。なかでも鹿屋海軍航空基地は九州内の大規模基地としては最も沖縄に近く、第五航空艦隊司令部が設置され、菊水作戦に呼応して全国より集結した作戦機搭乗員908名が鹿屋の地を飛び立ち沖縄の波間に散りました。
鹿屋航空基地資料館
鹿屋航空基地資料館は1973年に開館し、戦中の資料や現在の自衛隊を解説しています。
なかでも特攻隊や作戦機の搭乗員犠牲者に関する資料がよく展示されています。
また、戦後に再会した搭乗員達による展示や慰霊碑があります。戦後の平和な時代とのギャップに生きづらさを感じた人も多かったのではないでしょうか。
そんななかでも胸を打つのは左右一面にある戦死搭乗員の写真です。壁一面の顔、顔、顔。誰かに見送られるでもなく沖縄の海にひっそりと散った英霊の方々です。
最後の出撃に何を思ったのでしょうか。
遺族の方々は家族の戦死をどのように受け止めたのでしょうか。
出撃直前に綴られた家族に宛てた手紙には、勇ましくも自身亡き後の家族を思う気持ちが滲み出ています。
上の写真は実際に鹿屋に展示されています。