(3) 日本戦跡探訪 串良海軍航空基地
特攻機の最期の声を聞け
串良海軍航空隊
串良海軍航空隊(以下串良空)は1943年に、機体整備員の練習航空隊としてその歴史を刻み始めました。
開隊後は逼迫する整備員需要に応える反面、予科練教育機関に指定され、予科練教育を開始します。
合計で約5000名を内外の航空隊に送り出した串良空でしたが、九州の他の航空隊と同様に基地設備を菊水作戦参加部隊に明け渡して疎開したと思われます。
串良空の最期は1945年6月1日、全国の予科練教育の停止によりその役割を果たして翌月に解隊となりました。
串良海軍航空基地
菊水作戦が開始になると全国より作戦機が九州に飛来するようになります。それは串良基地も例外ではなく、最近話題になっている兵庫県の加西市にある鶉野飛行場を出撃した白鷲隊は、串良を経由して沖縄に突入しました。
この白鷲隊は練習生により編成されており、戦況がいかに逼迫したものだったのかが伺えます。
特攻機の他に一般作戦機も多数が出撃し、その多くが未帰還となりました。
ちなみ日本海軍航空隊の通常攻撃による最後の大きな戦果は、串良基地を出撃した天山艦攻による夜間雷撃でした。
菊水作戦中に串良より出撃した特攻機搭乗員363名、一般作戦機210名が戦死されました。
串良平和公園と地下壕第一電信室
75年前は将兵や市民が手に手に帽子や布を振って特攻機を見送った串良基地は、現在では串良平和公園として整備され、桜の名所として有名です。桜を楽しむだけでも結構ですので皆様の元気なお顔をお見せください。元気な私達の顔をお見せする事が何よりの供養になるのではないでしょうか。
串良平和公園の特徴は特攻機搭乗員の他に、通常作戦機搭乗員の慰霊碑が多数建立されていることです。特攻機の話はよく語られますが、通常作戦機(直掩、偵察、攻撃)の方々が語られる事は少ないように思います。
写真は串良平和公園(旧串良海軍航空基地跡)
特攻機の最期の声を聞け
菊水が戦跡巡りを始めるきっかけとなったのが、地下壕第一電信室でした。
写真が地下壕第一電信室跡です。
住宅街の一角にポツンと佇んでいるそれがどのような役割を果たしていたか。この電信室では特攻機の突入電を受信して戦果判定の情報を収集していました。
この突入電とは特攻機が自ら突入前に発するもので、突入する艦種などを打電し最後は突入するまでキーを押しっぱなしにします。その音が途絶えた時、それはその搭乗員が戦死したことを意味します。
米軍の苛烈な迎撃を振り切り、濃密な弾幕を突破し最期まで目標に向かって突入しながら自身で戦果報告まで行わねばならない。
その事実に激しい衝撃を受けたことを覚えています。
この地下壕第一電信室跡では当時の突入電が再現されたものを聞く事ができます。
最後のツー音が部屋に響き渡り静かになった時の静寂に、電信室に勤務した方の息遣いを感じる事が出来るかもしれません。
こぼれ話
- 当時は航空基地があった串良平和公園も現在では桜の名称として人気を博しています。
- 東九州自動車道は非常に景色が良いです。特に海に面している区間は文字では形容し難い美しさです(残念ながら写真はない)。九州は非常に景色が良い場所だと感じました。