(9) 日本戦跡探訪 伊保原飛行場跡
草薙隊沖縄に向け出撃す
名古屋海軍航空隊と草薙隊
名古屋海軍航空隊(以下名古屋空)は1941年に伊保原飛行場に進出した霞ヶ浦海軍航空隊分遣隊が、1942年に正式に独立し開隊された。
名古屋空の任務は実戦機を配備したような部隊ではなく、練習航空隊として陸上機搭乗員の育成にあたった。
しかし戦況が風雲急を告げ始めた1944年9月より、実戦機である九九式艦上爆撃機による操縦訓練を開始。
翌年には練習航空隊の任を解かれ特別攻撃隊を編成するに至った。
この時に編成された部隊が特別攻撃隊 草薙隊であった。同隊は九九艦爆により編成され、菊水一号作戦から四号作戦に呼応して九州は第二国分基地を延40機が出撃、28機が未帰還(戦死56名)となった(一説には三回の出撃で戦死63名)。
おそらく四号作戦終了時に名古屋空は実戦機、搭乗員を消耗し尽くして解隊されたと思われる。
写真は浄水町にある草薙隊の碑である。
この慰霊碑は沖縄の返還時に生存搭乗員や機付けの整備兵など有志が集い建立した。
石碑の一部を紹介する。
彼ラガ眠ル沖縄ノ地ガ祖国復帰ノ日ヲ迎ウルニアタリ有志ノ協力ヲ得テ豊田市在住ノ元海軍軍人本碑ヲ建立シ
草薙隊ノ忠烈ヲ永ク後世ニ伝エルモノナリ
自分の整備した飛行機に搭乗する戦友を機付けの整備兵はどう思い見送ったのだろうか。
菊水が読んだ回想録に登場した機付けの整備兵は当番の機を救うため、機銃掃射の中でも果敢に飛び出して行きました。
自分は飛んで行けない悔しさや仲間を送る悲しさを乗り越えて、精一杯の整備をして帽振れで見送ったに違いありません。
菊水が訪れた際には石碑は綺麗でしたが、現在では関係者の高齢化のため慰霊式典などはされないようです。
どうか草薙隊の方々を忘れないように地域の人々と共に語り継いでいきましょう。
第二国分基地と特攻花
第二国分基地は国分海軍航空隊より発足した本土決戦に備えた基地であった。
元々は練習航空隊であった国分空であったが、戦況が悪化しついに航空総反撃(菊水作戦)が開始されると
状況は一変した。
九州の飛行場は特攻機の出撃地になる他、九州の防空隊や制空隊、一般作戦機が展開するために練習機材は四国の観音寺に移転した(観音寺海軍航空隊)。
特攻花とは地域や歴史によって異なりオオキンケイギクとテンニンギクの二種類存在する。
第二国分基地の周囲に咲いていたのがオオキンケイギクとされており、ここに植えられていたのは第二国分基地がある十三塚原より種をいただいたものらしい(現在は移植等は禁止)。
菊水は立て看板のセリフを読んで何故か涙ぐんでしまいました。
「ホラ、プロペラの音が、風の声が」
今では何代も後のオオキンケイギクかもしれません。しかし、当時のプロペラ音と精一杯に振る帽子の風切り音を現代に伝えてくれているような気がしませんか?