(13)日本戦跡探訪 大井海軍航空隊跡
白菊に想いを乗せて
大井海軍航空隊
大井海軍航空隊(以下大井空)は1942年4月1日、静岡県榛原郡川崎町は大井飛行場にて開隊。大井飛行場は牧之原台地の茶畑を接収し後に増設された。
大井空は同年11月に土浦海軍航空隊を卒業した学生の受け入れを開始し、1944年の最盛期には3000名の隊員が錬成に勤しんだ。
また大井飛行場の位置関係から遠州灘付近の輸送航路を脅かす、敵潜水艦の対潜哨戒や対潜掃討を行う館山海軍航空隊を迎えた。
その後敗退が続く戦況でも搭乗員の錬成に励んでいたが、1945年3月25日に天一号作戦が発動。大井空も菊水作戦(航空総攻撃)に策応し、練習機白菊による三個特攻隊を編成、八洲隊と命名された。同部隊は菊水一号作戦より特攻出撃待機となった。
十度にも渡った菊水作戦だったが八洲隊には出撃命令が出ず、菊水十号作戦終了をもって出撃待機は解除となった。
大井空は全国の練習航空隊が錬成を停止する中で、数少ない錬成機関として終戦まで活動しました。
大井飛行場を巣立った多くの偵察機搭乗員が自身の任務を全うし、還らざる索敵飛行に出撃し、彼等の命と引き換えに入手した情報が日本海軍の作戦を支えました。
天一号作戦
天一号作戦とは大戦末期に本土防衛を目的とした作戦である。天号作戦の最大の特徴は作戦の手段を航空機に頼った点である。
これは可能な限り本土より離れた場所で敵を食い止めたい意志の現れだと筆者は考えるが、フィリピン特攻戦や台湾沖航空戦、レイテ沖海戦と日本の航空戦力は消耗が激しく作戦遂行能力は厳しいものであった。
また天号作戦では陸海軍で作戦の捉え方が異なり、最終的に本土で敵を迎え撃つ計画を志向し国内に戦力を残置する方針を示した陸軍に対し、海軍は沖縄を天王山として可能な限りの戦力を差し向けた。
認識が異なる一方、本土に迫り来る敵が南西諸島(沖縄)を前進基地に利用すると公算した陸海軍は、米軍による着上陸戦過程において痛撃を与えることを目的とした。
結果として1945年4月6日より、1800機を超える特攻機をもって航空総攻撃たる菊水作戦が発動された。
大井海軍航空隊跡地
現在、大井海軍航空隊を伝えるのは牧之原コミュニティーセンターで、練習機白菊の車両や発動機が展示されています。この発動機は特攻訓練中に墜落した白菊の発動機とされています。
他には防空施設や明治基地跡にも散見した燃弾庫らしい物が遺されています。これらの施設は私有地に点在しており、数十年後には存在しなくなっているかも知れません。日本のために命をかけた先人達の記憶を写真という形でも遺さねばなりません。
防空施設
燃弾庫