(8) 日本戦跡探訪 三重海軍航空隊跡
予科練達が青春を捧げた地
海軍飛行予科練習生
真珠湾攻撃を皮切りに航空戦時代の幕開けを示した日本であったが、時代の最先端機材たる航空機を取り扱うには優秀な人材と適切な訓練を必要とした。
そんな日本海軍の搭乗員需要を支えたのが海軍飛行予科練習生(以下予科練)であった。この制度の始まりは戦前の1929年12月まで遡り、応募資格は満14歳以上20歳未満であった。この制度はその後度々の内容の変更を経て戦争に突入した。
日本の初戦の連戦連勝を支えたのがこの時までにしっかりと錬成できた搭乗員であることは間違いありません。
香良洲 三重海軍航空隊
戦争初戦の連勝により戦線は拡大し、航空機搭乗員の損耗も激しくなると需要がより大きくなることとなった。それまでは土浦海軍航空隊が一手に引き受けていた予科練の錬成はもはや飽和状態となりつつあった。
そのため三重県一志群香良洲に新たに予科練の育成機関である三重海軍航空隊(以下三重空)を編成するに至った。
ただ航空隊とは名がつくものの訓練機や実用機の配備はなく、実機訓練に至る前段階での訓練を行なっていた。この内容が漫画「零戦少年」(著者葛西りいち氏)で細かに書かれている。そのため三重空では海軍兵としての精神や遠泳などの訓練が行われていたようです。
そんな中でもパラシュート訓練は技術も未発達で事故が絶えず殉職者が多かったと言われています。
そんな三重海軍航空隊を巣立った若鷲達は自身の任地に赴きその限りある命を陸に空に海に散らしたのでした。
香良洲歴史資料館(若桜館)
(旧三重海軍航空隊隊門:若桜館)
太平洋戦争も終結し、多くの若者を育て上げた三重空でしたが現在は一部の施設や慰霊碑を除いてその姿は見ることができません。
その歴史を今に伝えるのが香良洲歴史資料館(以下若桜館)と言われる香良洲の歴史資料館です。
ここでは三重空の歴史を伝えるとともに、戦後に戦友会や予科練の同期会が建立した慰霊碑が多数設置されています。
最後に若桜館に設置された四つの慰霊碑より一部を抜き出してご紹介します。この慰霊碑は大空に還った戦友達を偲ぶ石碑です。その壮烈な最期が目に浮かび涙せずにはいられないように思います。
此処は旧三重海軍航空隊の一隅なり
或る者は還らざる索敵飛行を続行
或る者は愛機諸共体当たりを敢行
或る者は飛ぶに翼なく陸に海に特攻出撃に参加
或る者は南海の空に敵機動部隊に肉弾突入
或る者は本土迎撃に敵機との空戦
或る者は訓練中
還らざる機となり
雲流るゝ果てに
或いは南海の波間に
或いは特攻出撃に散華せり
「散る桜 残る桜も散る桜」
戦友よ眠れ静かにそして安らかに波青き香良洲の浜に
最後に写真を幾つかご紹介します。
機上練習機白菊の主翼。訓練機でありながら菊水作戦では特攻機として出撃した。ただし本機は軽量化のため信号装置が隊長機以外なかったためその戦果の全容を知ることは当時できなかった。
特攻艇震洋のエンジンとスクリュー。末期には飛行機の不足から、震洋や回天と言った海上特攻兵器に転科する者も多かった。
香良洲の浜付近にある三重海軍航空隊の慰霊碑。若桜館より少し離れたところにある。
海軍用地であることを示す石標。