(17) 日本戦跡探訪 小松海軍航空隊跡
飛ぶに翼なく歴史に幕を閉じる
小松海軍航空隊
日進月歩で進化する航空機材はより洗練された搭乗員や管制、戦術、指揮を必要としました。
日本海軍ではより優秀な人材を集めるべく、海軍予科飛行練習生制度を確立し、航空戦力が必要とする人員の育成に励みました。
そうした中で、1943年の予科連甲種13期は合計で20,000名を超え、従来の土浦、三重、鹿児島の練習航空隊では錬成を賄いきれずに新たな練習航空隊として小松海軍航空隊が開隊されました。
小松海軍航空隊は航空兵科の中でも陸上攻撃機(一式陸攻や銀河)の運用を教育する部隊でした。
ただ開隊時期は1944年9月であり、戦いの趨勢は決しつつありました。また飛行場の完成はさらに後の11月のこととなり、1945年3月1日には予科連教育自体が凍結となりました。
その後は決号作戦(本土決戦)に備えた戦力の整理のために新設された山陰海軍航空隊が小松飛行場に開隊されると6月30日に短すぎる歴史に幕を閉じました。
小松飛行場と山陰海軍航空隊
小松飛行場の落成は1944年11月とフィリピン方面では特攻が開始されており、戦況は逼迫した状況でした。
しかし建設開始時期は1941年8月に海軍が用地取得をしており、本格的な着工は1943年4月でした。
小松飛行場を建設するに至った理由は、太平洋戦争の開始により太平洋側の基地に空襲(おそらくドーリトル空襲)を受けたことが直接のきっかけとされており、本飛行場の役割は航空機の疎開先だったようです。
実際に1944年9月には迎撃戦闘機の配備により基地を追われた豊橋海軍航空隊の陸攻部隊が本飛行場に疎開しています。
その後も山陰海軍航空隊が開隊されるとより疎開基地としての機能が重視されます。
この山陰海軍航空隊は沖縄戦の戦況不利により、本土決戦は避けられないとして航空戦力を温存し、最後の戦闘投入までの訓練を行うべく開隊された部隊です。
部隊はかなりの大所帯であり、小松の他に美保、峰山、姫路などで戦力の整理を行いました。コレに合わせて練習航空隊であった峰山海軍航空隊と姫路海軍航空隊が解隊となりました。
最後に現在の小松飛行場付近の遺構を写真にてご紹介します。
小型機用の掩体壕が残っています。
このカマボコ型の建物は発電所跡らしいです。
小松市立 空とこどもの絵本館
昔の建物で右上のでっぱりは防空監視哨だったみたいです。
最後に石川県護国神社に参拝。さまざまな慰霊碑があり厳かな雰囲気でした。