菊水のブログ

太平洋戦争などに興味がない人や知識がない人に、少しでも先人の思いを伝えるために開設しました。どちらかと言うと詳しい人向けではないのですが、還らざる先人の軌跡をご紹介できれば幸いです。

沖縄戦 牛島満陸軍大将の英断

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己を滅して 悠久の大義に生きる

 

はじめに

皆様は牛島満陸軍大将(以下牛島氏)をご存知でしょうか?

牛島氏は沖縄戦における日本軍(第32軍)の指揮を執り、圧倒的な戦力差でありながら米軍を沖縄に2ヶ月に渡って拘束した名将です。

一方で戦後には首里防衛線の放棄に伴う南部撤退により、住民被害を生じさせたとして非難を浴びることもある人物でもあります。

 

なぜ突然このような文章を作成したのか。理由は戦後の価値観や目線による批判や心ない言葉を紙面や電子記事で目にするようになったためです。

何事においても多種多様な意見があるのは素晴らしい事です。

しかし、最近の日本には国のため、家族のために一度きりの命を捧げた先人の方々に対しあまりにも冷たく、どこか他人事のように見ているように見えます。

日本は古くから御恩と奉公という言葉があります。

意味合いは異なりますが、私たち後世の人間は先人の皆様の命を懸けた行動に報い、その御霊を弔うことがあって然るべきではないでしょうか?

 

最後になりますが、陸軍大将牛島満氏と指揮下将兵、そして危機に応じて陸海軍に協力された沖縄県、県民の生命を守るべく戦火に身を投じた行政職員に永久(とこしえ)の感謝とその御霊の安からんことを願い下記よりお話を始めさせていただきます。

 

私の稚拙な文章ではありますが、国難において己を滅し悠久の大義に生きることを選択した牛島満氏の決断と最期、そしてその選択の意味をご説明できればと思います。

 

陸軍大将 牛島 満

牛島満(うしじま みつる)氏は1887年7月31日に旧薩摩藩士で当時は陸軍中尉だった牛島実満の四男として、東京にて産まれました。

しかし、実満の急逝により母は郷里であった鹿児島県鹿児島市に帰郷、学業は非常に優秀だったようで難関校であった第一鹿児島中学校(現 鹿児島県立鶴丸高等学校)に入学し、父と同じ軍人を目指していたようです。

その後は1904年に陸軍幼年学校、1906年には陸軍士官学校に進み1908年に歩兵科を二位の成績で卒業しました。そして1912年に陸軍大学校に進み1916年陸大28期を56名中51位で卒業します。この時の同期にはマレーの虎と呼ばれた山下奉文終戦の立役者とも呼ばれる田中静壱がいます。

 

陸大卒業後はシベリア出兵などを経て平和な時代に入ります。軍縮の流れもあり母校である鹿児島第一中学校へ配属将校として赴きます。この配属将校は宇垣軍縮で有名な宇垣一成が実施したもので、従来の予備役が行うものを現役兵を配属するものでした。この時に牛島氏は教育者としての素養を養い、のちに陸軍の教育者として頭角を現します。

 

時代は進み平和な時代は終わりを迎えます。日本はまもなく日中戦争に突入し牛島氏も中国大陸に派遣されました。

この時牛島氏が指揮することになった部隊は、226事件の首謀者であった栗原安秀中尉の所属部隊であった歩兵第一連隊でした。

牛島氏は懲罰的な中国大陸派遣に荒んだ部隊をよくまとめ上げ、トラックに乗って部隊を巡回して兵を労いました

1937年に少将に進級した牛島氏は第六師団歩兵第36旅団長に就任します。この部隊は都城、鹿児島の二個歩兵連隊により編成されており、牛島氏は郷土部隊の指揮官になったのです。

同旅団は支那事変の勃発を経て中国大陸に派遣され下馬嶺、石家荘、南京戦と勝利を収め中国軍からは「鬼将軍」と呼ばれ恐れられました。

その後、沖縄方面の第32軍司令官になるまでは牛島氏は陸軍の教育者として活躍しました。

1939年に陸軍予科士官学校、1941年には満州陸軍公主嶺学校、1942年には陸軍士官学校の校長を勤め上げました。

なお、牛島氏が公主嶺学校校長を務めていた時に対米戦開始を聞いた牛島氏は驚愕し、戦争のいく末を憂慮していたようです。

この認識は日本が連戦連勝中でも変わることはなく、陸軍士官学校校長在任中の1942年には米国の豊富な物量を冷静に分析し、日本軍の戦果を過大に評価しないよう訓示をしていました。

残念なことに牛島氏の読みは的中し、ミッドウェー海戦の敗北を境に日本軍は敗戦へと直走り始めます。

牛島満大将(当時は中将)の運命を決める決定が下されたのは1944年8月、沖縄方面第32軍司令官を命じられた牛島氏は羽田空港より沖縄へと飛び立ちました。

沖縄着任後は住民の疎開と陣地構築に専念した牛島氏でありましたが、有力部隊の引き抜きと南方での島嶼戦の蓄積もあり防衛体制の方針は二転三転し、構築は容易ではありませんでした。

米軍の上陸後、第32軍は敢闘しますが5月末には首里防衛線より南部に陣地転換し継戦しました。

そんな牛島氏の最期は1945年6月22-23日、摩文仁司令部豪で自決されたのでありました。

牛島氏は沖縄戦にどう臨んだか

ここからは牛島氏が沖縄戦にどのように臨んでいたか、またそれは戦闘中にどのように作用したのかを考察したいと思います。

1944年8月に沖縄方面第32軍に任命される以前より、牛島氏は「私だけがのうのうと教壇に立っていては相すまぬ。戦死覚悟で御奉公したい」と家族には話していたようです。

現在では沖縄県民を軽視していたように評価される牛島氏ですが、そのような事はまったくなかったと思われます。

県民の疎開

沖縄県民の疎開は牛島氏の着任以前より開始されていましたが、着々と到着する日本軍部隊による安心感もあり、県や軍による説得にも関わらず疎開はなかなか進みませんでした(なんだかコロナ禍の日本にも通ずるところがありますね)。

また1944年8月には米潜水艦が日本近海を跋扈していたこともあり、22日には対馬丸事件が発生。すでに安全な県外への疎開は困難になりつつありました。それでも1945年3月までに本島から約8万名八重山列島より約3万名疎開させることに成功しました。

当初から想定されていた南部での戦闘

牛島氏の着任後の12月、中央より「皇土警備要領」が通達されます。これは簡単に解説すると、これから戦闘が予想される地域(南西諸島、台湾など)の住民を可能な限り戦力化し、非戦闘員はあらかじめ退避させるという物でした。

これを受けて八原参謀が作成した「南西諸島警備要領(以下南西要領)」を裁可しました。ここで牛島氏の人柄に触れると、牛島氏は部下が作成した作戦や要領などには口出しをせず、責任のみ自分が取るという方だったようです。一見無責任にも見えますが、部下を信頼し無用な口出しはしない良い上司だったといえます。しかし、後にこの方針により牛島氏率いる第32軍は手痛い失敗をしてしまいます。

話を戻して南西要領は中央の要領に沿ったものでしたが、追加された点と配慮がありました。

南西要領の追加点

・非戦闘員は45年3月までに戦闘地域にならないであろう北部に疎開する

・各部隊は所属自動車や舟艇で疎開を可能な限り支援する

・非戦闘員は戦闘開始直前まで陣地構築や農耕に従事し、戦闘直前に急速に北部に退避する。

・県知事は島北部に疎開民のための食糧や居住区を整備する

上記のことからわかるように、南部での戦闘は想定外ではなく既定路線であったことがわかります。

また、南西要領の作成にあたり八原参謀や牛島氏はサイパン島のような住民犠牲は避けねばならない事も共有していました。先進国であるアメリカが一般市民の虐殺をするとは考えにくく、主戦場として想定される南部に住民を残すことに否定的でした。

この南西要領に則り食糧の確保に邁進した島田叡県知事(島田知事も調べれば調べるほど立派な方で、この時代の人は自分が出来ることに精一杯挑んでいたのだと思います)や第32軍でしたが、マラリアなどの蔓延る北部への疎開は遅々として進まず、戦闘開始直前までに疎開したのは予定の三分の一である85000人でした。

その後、3月までに非戦闘員は北部に退避とされていたものの、米軍上陸直前の3月31日に北部への移動は禁止となりました。

結果として多くの住民が以前として戦闘地域に同居する事となり、軍は行き場のない住民を本当南部へ移動させるよう要請しました。

ただ、ここまで見てわかるように牛島氏は出来うる限りの努力を果たしていたと言えるのではないでしょうか?

また、牛島氏はあくまで軍司令官であり防衛の責任者であります。大変な築城作業の傍で軍は出来うる限りの事をしていたと私は考えます。

以下の文でもっと踏み込んで考えてみましょう。

リアリティに見る軍隊と非戦闘員

一般に軍隊は国家とそれに属する生命と財産を守るものだと思われがちですがリアルには異なります。

軍隊は軍隊を守ることで国民を守ることが出来るのです。

例えるとこうなります。

現在、二発のミサイルが日本に向かっています。一発は市街地に向かっており、もう一発は自衛隊の重要な基地に向かっています。しかし、迎撃ミサイルが一発しかない場合、どちらを迎撃すべきでしょうか?

 

意地悪な質問ですね。

正しい答えはないかもしれません。

一般市民感情的には市街地に向かうミサイルの迎撃を優先して欲しいかもしれません。

しかし、軍事的には戦い続けるために基地を守らなくてはならないでしょう。

そしてこの認識のズレが住民被害を拡大させたような気がします。

 

まず、そもそもとしてどこの軍隊も好き好んでなんの軍事的価値もない非戦闘員を攻撃はしません。

つまり、攻撃を受けるのは軍隊になります。

 

戦果に焼け出され身一つで頼るところといえばもはや軍隊しかなさそうではありますが、攻撃対象である軍と同行したことで被害を拡大させたようにみえます。

おそらく牛島氏としては軍と非戦闘員を完全に切り離したかったのだと思います。

こう推察する理由は二つあります。

一、島田叡県知事との最後の会話

「諸君らは文官で軍人ではないのでここで死ぬ必要はない」との会話と住民の戦闘地域外である知念半島への避難指示。

 

二、残存する日本軍部隊に対して、「祖国のため最後まで敢闘せよ、生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし」。

 

牛島氏は冷静な判断から沖縄戦開始前より沖縄戦は時間稼ぎの戦いであることはわかっていたと思われます。

そうした中で、軍部隊に対しては最後の一兵まで抗戦し時間を稼ぐよう指示する一方、開戦前より住民に対しては投降の可能性を残していました。

しかし、思惑通りにならず多くの住民が戦闘地域にとどまり投降の可能性がない軍隊に同行してしまった事が悲劇を生んでしまいました。

最後の選択

5月30日の首里撤退後敢闘すること約三週間、第32軍は最期の時を迎えようとしていました。

無事に撤退した部下将兵30,000人も激烈な戦闘で消耗し、指揮掌握もできないようになりました。

17日にはパーシバル中将より降伏勧告がありますが、これには応じませんでした。

戦局はもはや挽回は不可能ですが、牛島氏は自分の使命を忘れてはいませんでした

 

部隊の掌握も難しくなった18日、牛島氏は各部隊にこれ迄の感謝と以後の方針を示す決別電を送りました。

 

発 第32軍司令官 牛島満

 

親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘、じつに3ヶ月。すでにその任務を完遂せり。諸子の忠勇勇武は燦として後世を照らさん。いまや戦線錯綜し、通信また途絶し、予の指揮は不可能となれり。自今諸子は、各々陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし

 

内容は兵の労を労う牛島氏らしい優しさと、降伏をよしとしない非常に厳しい内容でした(文は長野参謀が作成し牛島氏が裁可した)。

この決別電の後に牛島陸軍大将は部下と自決しました。享年57歳でした。

牛島陸軍大将は最後に自分が自決することでもう命令は覆らない、終戦まで続く悠久の大義に部下将兵と生きることとなります。

 

小の犠牲で大を守る

並の人にはこの小の中に自身や大切な部下たちを組み込み判断することは出来ないでしょう。

己を滅し

悠久の大義に生きる

 

沖縄守備隊が決死の覚悟で稼いだ貴重な時間、そして米軍に対して日本軍部隊が未だに精強であるとの認識が本州への上陸を遅らせて多くの命が救われたと信じてやみません。

牛島陸軍大将率いる第32軍と沖縄守備隊は戦後も抵抗を続け、南西諸島軍部隊の正式な降伏は1945年9月7日のことでした。

この日をもって牛島氏と麾下将兵の戦争はようやく終わりを迎えることとなりました。

 

非常に長文でありました。

読みにくい内容で申し訳がありません。

重ねてになりますが、全戦没者の御霊の安からんことを願い本投稿を終わります。