(14) 日本戦跡探訪 鈴鹿海軍航空隊
軍都鈴鹿に爆音を響かせて
鈴鹿海軍航空隊
鈴鹿海軍航空隊(以下鈴空)は1938年に偵察機搭乗員(偵察・通信)専修の練習航空隊として開隊された。
同様の練習航空隊は静岡県は牧之原に在空しており、鈴空では約2万名を各航空隊に送り出しました。
最盛期では約3,000名が在籍し錬成に勤めました。
鈴空の付近には他に香良洲空(三重海軍航空隊)が在空しており、比較的に近い場所に教育部隊が在空していました。香良洲歴史資料館に展示されている白菊の翼は鈴空所属機と思われています。
鈴空は錬成に励んでいたものの日本軍の武運は長く続かず、1945年には鈴空は解隊となり第一鈴鹿海軍航空基地として再編されます。
これにより鈴空は練習航空隊から実戦部隊となり、菊水作戦に策応して特別攻撃隊若菊隊が編成されました。
こうして編成された若菊隊は特別攻撃の練習を続けました。こうした練習の最中でも機材不良や事故、敵戦闘機との交戦により多くの若鷲が命を落としました。
(白菊の主翼)
白菊特攻隊
フィリピン特攻戦は現地に展開した陸海軍の実戦部隊により敢行された。これらの特別攻撃隊は比較的練度の高い部隊と実戦機により特攻が行われたが、沖縄戦(菊水作戦)も数度にわたる航空戦により、実用機による特攻機の手配がつかなくなった。
そのため1945年より練習機による特攻隊の編成が開始されるに至った。なかでも機体数も確保できて操縦が容易な白菊は、250kg爆弾2発と爆装も大きく白菊特攻隊が編成された。
白菊特攻隊は以下の通り。
・高知海軍航空隊(菊水白菊隊) 特攻出撃
・徳島海軍航空隊(徳島白菊隊) 特攻出撃
・鈴鹿海軍航空隊(若菊隊) 出撃待機
・大井海軍航空隊(八洲隊) 出撃待機
練習機による特攻隊編成は戦局が最終局面にあることを予感させるとともに、その成功が非常に難しいことは予想がされていた。
そのため白菊特攻隊は白昼堂々の出撃は不可とされ、夜間飛行訓練を行った。こうして夜間飛行訓練を行った白菊特攻隊は夜間出撃し、夜明けに敵艦船に特攻攻撃を行った。
期待値は低かった白菊特攻隊であったが、ピケット線に展開した米艦艇に突入し少なくない被害を与えた。にもかかわらず白菊特攻隊では指揮官機の他には通信機を搭載していない場合が多く、その戦果を知ることはできなかった。
菊水七号から菊水十号までの間に徳島空で56名、高知空で52名が大空に還った。
鈴鹿の地に
現在では鈴空の存在を示す遺構はほぼ残っておらず、隊門跡や歩哨小屋などが唯一その存在を伝えています。
(市民が建立したモニュメント)
(隊門)
(歩哨小屋)
軍都鈴鹿で祖国や家族のために青春を捧げた多くの将兵の活躍を、未来に伝えることが求められています。