(11) 日本戦跡探訪 明治航空基地
東海の護りは南の空に散った
明治航空基地
明治海軍航空基地は1943年より建設を開始し、1944年より第三四五海軍航空隊(以下三四五空)明治派遣隊が実用機(紫電)による訓練を開始した。戦局の悪化に伴い中京圏防空を任務とした。
その後三四五空に続き第ニ一0海軍航空隊
(以下ニ一0空)が明治航空基地で開隊され戦列に加わりました。
中京地区は三菱重工の航空機生産拠点があり、空襲の格好の目標となりました。
明治基地所属ニ一0空はB29迎撃戦において活躍し、他の航空隊や高射砲と協力して多数の損害を与えました。
ニ一0空の菊水作戦投入後は同部隊の再編により原隊復帰し、明治、豊橋、名古屋(伊保原のことか)などの各基地にて戦力温存に努めました。
第三四五海軍航空隊
局地戦闘機を本格的に配備するべく編成された部隊。1944年1月15日に兵庫県西宮は鳴尾飛行場で開隊された。紫電を72機配備する予定であったが生産が間に合わず、零戦により編成された。
明治基地にはようやく紫電が配備された三四五空から分遣隊が配備され訓練を行った。
三四五空はなかなか配備が進まない戦闘機定数に悩まされつつ錬成に励みましたが、マリアナ決戦失敗後の航空隊再編に伴い第三四一海軍航空隊の指揮下に移りました。
第ニ一0海軍航空隊
ニ一0空は来るべきフィリピン方面決戦(レイテ決戦)に向けて、実戦機の実戦的な訓練を行うために1944年9月15日に明治航空基地で開隊されました。
そのため訓練に向けて大規模な部隊が編成されました。特に付近に三菱の航空機生産拠点(三菱重工名古屋航空機製作所)があり、新造機の補充が比較的容易とされていました。
作戦機定数は以下の通りです。
艦上戦闘機 48機
局地戦闘機 48機
陸上偵察機 24機
艦上爆撃機 24機
艦上攻撃機 24機
しかし戦況の悪化により、占領地より飛来するB29が名古屋地区に空襲を行うようになります。
ニ一0空はこの迎撃にあたり明治基地より出撃しました。
1945年に沖縄防衛戦が開始されると、精強なニ一0空にも菊水作戦参加が要請され、国分基地や串良基地、出水基地に分散配置となりました。
菊水作戦には一号より参加、作戦初日から彗星部隊による対機動部隊攻撃の他に、零戦や紫電部隊による制空戦を行いました。
精鋭たるニ一0空でしたが、4月11日にはついに爆装零戦、爆装彗星による特攻隊が出撃しました。
菊水作戦参加は三号が最後となり、制空部隊として特攻機の血路を開きました。
菊水三号以降では原隊に復帰し再編成をされ、明治基地等に分散配置され戦力の温存に努めました。
この温存の期間中は迎撃戦にも参加せず、空襲の間を縫って搭乗員の錬成に励みました。終戦時には稼働状態の零戦45機を含む65機を保有していましたが再び飛び立つことはありませんでした。
明治航空基地跡
現在では明治航空基地の存在を示す遺構は少なくなりつつあります。石碑により説明があります。
カマボコ型の建造物は燃弾庫というものです。飛行機に補給する燃料や弾薬を分散保管していたようです。
東端公園敷地内には明治基地戦没者慰霊碑が建立されています。名古屋の防空戦に、沖縄防衛戦に多数の搭乗員が空を朱に染めて波間に散りました。
明治航空基地があった敷地より見上げた空は綺麗でした。明治航空基地に勤めた将兵も同様に空を見上げていたのでしょうか。