(7) 日本戦跡探訪 鶉野飛行場跡
沖縄の海に散った白鷲たち
兵庫県 加西市 鶉野飛行場
鶉野飛行場の始まりは川西航空機姫路製作所組立工場の専用飛行場として産声を上げました。
戦争中期以降は海軍の姫路海軍航空隊(以下姫路空)、筑波海軍航空隊(以下筑波空)が進出し、攻撃機搭乗員の錬成や特攻隊(白鷲隊)が編成されました。
姫路海軍航空隊
姫路空は1943年に開隊され、艦上攻撃機搭乗員の養成を行いました。艦上攻撃機とは主に空母より発艦し、雷撃、水平爆撃、偵察に利用されました。
また、空母だけでなく地上基地においても広く活躍しました。
(九七式艦上攻撃機)
(艦上攻撃機 天山 ちなみに菊水は天山が一番好き)
姫路空は訓練部隊でしたが中期より実戦部隊として改編され、なかでも技量優秀な練習生より編成された白鷲隊が菊水作戦に参加しています。参加延機数は20機で63名の搭乗員が串良基地を経由して突入しました。
1945年5月4日の攻撃で作戦機を全て喪失した姫路空は翌5日で解隊となり短くも雄々しい歴史に幕を閉じました。
筑波海軍航空隊
筑波空は当初は霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊を元に発足しました。正式に筑波空となったのは1938年12月15日で以後は予科練の教育に努めてました。筑波空は特に戦闘機専修の訓練を行いました。
(筑波空にも配備された零式艦上戦闘機)
(迎撃用に配備された紫電)
しかし、戦局が悪化した1944年より練習機による訓練から実戦機による訓練過程に切り替えが行われ、教官により迎撃部隊が編成されるに至りました。
1945年2月20日、ついに筑波空にも特攻隊編成命令(筑波隊)が発令され、4月6日(菊水一号作戦)から沖縄方面に突入を開始します。
筑波空はこの後菊水十号作戦まで作戦に呼応し、6月22日の出撃が最後の特攻出撃となりました。
筑波隊は作戦参加将兵64名のうち55名が終戦までに沖縄の波間に散りました。
現在の鶉野飛行場
(無蓋掩体壕)
(高射機銃陣地)
現在の鶉野飛行場跡ではかつての戦跡を復元、維持しつつ後世に歴史を伝える場となりつつあります。
菊水は機銃陣地でふと思いました。
自分が陣地から見上げた空や山々を先人達も眺めたのかと、、、。
もう帰らない戦友をどのような気持ちで見送ったのでしょうか?