補足 沖縄戦と牛島大将の選択
敗北を早めた攻勢
既定路線であった南部戦闘
第32軍はなにを求められたのか
現在でも議論の話題となり、牛島氏を批判する上で槍玉に挙げられるのが「首里防衛線の放棄に伴う南部撤退」です。
しかし、先の「牛島陸軍大将の英断」でも述べたように、沖縄本島南部が主戦場になる事は米軍上陸以前より判明しており、「南西諸島警備要領」にはそれに合わせた住民の疎開が明記されていました。
その上でも住民被害が生じてしまったのは、着々と到着する増援部隊への安心感と、北部の環境が過酷であるということ。
そして頼る所を失った住民が軍部隊に同行したため戦闘に巻き込まれ、最終的に終わりない戦闘命令が下されたために、投降の機会も失ってしまったためでした(牛島氏は軍部隊に対しては最後の一兵まで抗戦する事を命じているが、非戦闘員には命じていない)。
軍の作戦計画とその推移
南西諸島警備要領(以下、南西要領)から本島北部は戦闘地域とせず、首里を主抵抗線として作戦計画は練られており、それに合わせた陣地構築がなされていたようです。
一方、南西要領からもわかるように南部は当初より戦闘地域になることは想定されており、特に喜屋武半島は地形が堅固であり、第24師団の物資も集積されておりました。
そしてこの時に第32軍に求められていたのは、華々しい勝利でも美しい散り際でもなく、どれだけ苦しかろうとも1日でも抵抗を続け本土決戦の時間を稼ぐ事でした。
そんな日本軍作戦計画に大きな狂いが生じたのは5月3日夜より開始された日本軍の総攻撃でした。
この総攻撃は度重なる中央からの催促と、長勇参謀らによる「攻撃戦力のあるうちに戦況打開」という半転攻勢の進言により決行されました。
しかし、一大砲撃より開始された総攻撃は米軍の圧倒的な火力により逆襲され砲火力の大部分と参加戦力に大打撃を受けました。
第32軍の不一致
日本軍が不必要な攻勢に転じてしまった理由は、上級将校の多くがこの戦いがどういった戦いであるのかを正確に理解していなかったためではないかと筆者は考えます。
しかし、ただ一人確実に状況を正確に理解して目的に合わせた作戦を計画していた人物が八原博通参謀でした。
まず状況認識としては沖縄において米軍に勝利することはまず不可能であり、本防衛戦の主目標は米軍に可能な限り損害を強要し時間を稼ぐ事が求められました。
つまり、戦う前から敗北は必至でありどれだけ長く戦えるかが問われていたのです。
にも関わらず、第32軍は不要な攻勢に出て戦力を大きく喪失し、結果として敗北を早める事となりました。なかでも攻勢時の大砲撃は限りある弾薬を惜しみなく投入しており、持久戦と逆行することとなりました。
結果として筆者は軍中央や第32軍の一部高級将校は今どのような状況でなにが求められているのか、どのような手段で対処すべきかの理解が浅かった、もしくは頭が追いつかなかったのだと思います。
簡単にまとめると下記のようになる。
(状況)
戦力差は圧倒的で沖縄における勝利は望めない
(求められること)
1日でも長い抗戦と可能な限りの米軍への損害の強要
(手段)
限られた人員装備、弾薬を節約し縦深的な築城で持久戦に持ち込む
ただし、第32軍の擁護をするならばどのような状況であろうとも、人は一筋の光を追い求めてしまうということだと思います。完全に自分や部下の生を捨てて現実を受け容れることは容易ではありません。
途中までは迷走した沖縄戦でしたが、攻勢の失敗後は八原参謀を中心に結束して持久戦に努めます。
そして6月23日、牛島大将は自身や部下将兵の生を断ち切り終わりない抵抗を命じました。
牛島氏の亡き後も沖縄守備隊は命令を守り抗戦を続け、沖縄守備隊が正式に降伏したのは1945年9月7日、陸海軍将兵約94000人、住民90000名以上の死者を出した沖縄戦も遂に終結となりました。
首里陣地からの撤退と批判
撤退の決定
5月3日の攻勢失敗後も粘り強く抵抗を続けた32軍でしたが、予備兵力や砲兵の消耗も重なり首里防衛線の維持が困難になりつつありました。
5月21日に軍参謀を招集した時点で運玉森が攻略されれば、首里防衛線が崩壊する危機に瀕しており早急に対策が求められました。
(運玉森と首里の位置関係を表す図)
この会議で示された現実的な方向性は首里陣地で決戦(以下首里案)をする、もしくは喜屋武半島へ撤退し持久戦に持ち込む(以下南部案)の二案でした(知念半島も考えられた)。
なかでも喜屋武半島への撤退を強く主張したのは、徹底した持久戦を主張していた八原参謀でありました。
一部の将官は首里案を推薦しますが、未だに5万名はいると思われる部隊を首里に展開するには手狭であり、砲爆撃による格好の的となると予想されました。
一方で南部案であれば喜屋武半島には第24師団の物資がある他、洞窟などが多数あり海岸線は切り立った崖で防御に優れました。
会議の翌日である5月22日に牛島大将の裁可が行われ、首里陣地に篭って玉砕することはせず、喜屋武半島に撤退して持久戦に持ち込むこと、主力の撤退は29日となりました。
また、それまでに物資と負傷兵の後送が行われることとなりました。
撤退の経過
結果から申し上げると日本軍の撤退(陣地転換)はほぼ成功し、喜屋武半島に再度防衛線を構築する事に成功しました。
22日 牛島大将が南部案を裁可
22日以降 物資・負傷兵の後送開始
24日 米軍の一部 那覇市内に突入
26日 米偵察機が日本軍部隊の大規模な移動を確認
追撃戦開始(首里包囲網が形成間近)
27日 第32軍首脳部首里より撤退開始。
29日 沖縄県の住民対策会議で住民の知念半島への退避を命令。
30日 第32軍首脳部が摩文仁へ撤退完了。
以降は撤退部隊により防衛線を再構築し、3週間に渡って抗戦した。
(注)おそらく24日時点で殿部隊が突破されたため、主力の撤退を早めている。
こうした動きの中で根強い批判があるのが、知念半島への住民の避難指示が29日までずれ込んだことです。
個人的に注目しているのは軍の首里撤退をどのタイミングで沖縄県と共有していたかである。
首里撤退は絶対に成功させねばならず、情報が漏洩した場合には激しい追撃戦を受けることとなる。
いくら沖縄県といえども撤退する事を共有することは憚られる。また仮に情報が漏洩せずとも軍と異なり統制が取れずに住民が大規模に知念半島などへ退避を開始すれば、撤退の予兆として捉えられるかもしれない。
難しい判断を迫られた事に違いありません。
歴史とは後世の人が自身の主観や思想の色眼鏡をかけて過去を読み解いた物だと筆者は思います。
かく言う筆者も色眼鏡をかけた一人であるのですが、どうにか少しでも当時の先輩方の視点に立てないかと思う次第です。
牛島満陸軍大将や指揮下の将兵達の思いは、我々現代人が先人を偲び伝え、感謝を捧げる事で悠久の時を生き続けると信じてやみません。
最後となりますが陸海軍の全戦没者将兵、商船隊等協力戦没者の方々、戦没市民及び連合国戦没者の御霊の安からんことを願い本文を終わりとします。