北の護り 二式水上戦闘機
二式水上戦闘機
二式水上戦闘機といえばR方面航空隊など南方戦線で活躍したイメージがあるのではないだろうか?。
二式水上戦闘機は島国である日本が飛行場を整備できない場所や、飛行場を整備するまでの仮設防空戦闘機のような物だと理解してくれれば良い。
原型は三菱製の零式艦上戦闘機であったが、中島飛行機によりフロート付きの水上戦闘機として生まれ変わった。
零戦22型
零戦32型
ちなみにこのような水上戦闘機を大量に生産したのは日本だけである。
そんな二式水上戦闘機最期の勇姿は北方にありました。
1945年8月18日、急遽侵攻を始めたソ連軍に対して、第五方面軍司令 樋口季一郎中将により命ぜられた総反撃に呼応した攻撃がありました。
鎮海海軍航空隊 塩塚良二中尉の操縦する二式水上戦闘機はソ連軍タンカーに特攻を敢行しますが、対空砲火に被弾しその翼を北方の冷たい波に濡らしました。
この戦いでは占守島方面において呼応した作戦機が被弾後に体当たりを行ったりしています。
ようやく終戦となり無事に故郷に帰り大切な人に会える。そのような状況から一転、特攻を敢行する心情は文章では表現できません。
どうか皆様、ほんの数十年前に日本を分断するような国難に立ち向かった先人の偉業を忘れないでください。
日本歴史探訪② 和歌山県 串本町
いざ行かん、潮岬
仕事中に翌日の休みにドライブがしたいと思い立ち、広げた日本地図に「潮岬」と言う文字を見つけた、、、。
帰宅するや車中泊の準備をして出撃。
あっさりと眠気に負けて紀北PAで眠りにつく。
① 橋杭岩
第一目的地は橋杭岩(道の駅)を目指した。太平洋を眺める道路を通り、道の駅に車を止めて海を眺めた。
足元に目をやると拳くらいの赤いカニがこちらを見上げていた(思わず飛び退いた)。
夏になれば海水浴場になるのだろうか?。
静かに波が打ち寄せており水上機の訓練に使えそうですね。
②潮岬及び潮岬灯台
いよいよ主要目的地に到着。昨年だったと記憶していたが人は非常に少なかった。
率直に言おう。
展望階の梯子が怖過ぎる(高所恐怖症)。
これは自身で経験して欲しい。失礼なように思うが高齢者の方やお子さんは危ないと思う。
展望階にある外の梯子にも目を疑ったが。
整備士や管理者様には頭が下がります。
③ エルトゥールル号受難の地
日本とトルコの友好のきっかけにもなったエルトゥールル号事件があった場所を望む高台です。
このお方は近代トルコの父。
ムスタファ・ケマルの像。
ここら辺は流れがキツく船が多数遭難するような場所らしい。資料館では係の方が丁寧に説明してくれました。
祖国を遥かに日本まできて異国の地に眠る方々、どうか魂だけでも祖国に帰れるよう願わずにはいられません。
トルコアイスなんかもありますので興味のある方はぜひどうぞ。
日本情景探訪(1) 琵琶湖
滋賀県 琵琶湖take1
日本で最大の湖である琵琶湖で過去に撮った写真をここに載せてオススメがあればご紹介する。
① 港町 鎮魂の碑
まず紹介するのは長浜市内に琵琶湖を望む高台に鎮座する、滋賀県内戦没者慰霊のための碑である。
遅い季節であったのに鮮やかな紅色に目を奪われる。
② 琵琶湖湖畔
琵琶湖と言えばと規定の箇所が良いとは思わない。
琵琶湖の楽しみは街道沿いにちょくちょく存在する無料駐車場に付属する砂浜がオススメである。
基本的にはさざなみ街道沿いに走ってもらえれば良い。
まったく人通りのない湖畔に座って夕日を見るのは贅沢な気分になります。
筆者は学生時代に部活の先輩達と遊びに来て以来の地に足をつけた旅となりました。
今はもう連絡もとらないけど元気にしているのかなぁ。
琵琶湖は夏になると水遊びできるし家族で来ると楽しそうですね。
日本情景探訪では有名な観光地や「え、そこ?」な場所をご紹介できればと思います。
筆者の自己満足ですので内容が稚拙なことはご容赦ください。
日本歴史訪歩① 風土伝承館杉浦医院
何百年と続く風土病に向き合った人達
かつて日本には山梨県甲府盆地を中心に原因不明の病が存在した。
この病は日本住血吸虫という寄生虫に起因する病気で、古くは戦国時代から甲府の民を苦しめていた。この病を日本住血吸虫症(地方病)と言う。
風土伝承館杉浦医院とは当時は未知の病であった地方病と闘った先人達の軌跡である。
杉浦医院では当時を昔のままで現在に伝えている。
筆者が過去とのつながりを感じたのは診察室の診察台である。
展示されている写真の中には患者がこの診察台に寝ているものもある。
筆者が手を置いた場所にかつては生死を彷徨う患者がいたのだ。
写真のスチブナールとは当時開発された地方病の特効薬であった。しかし、強い副作用や高額であったなど、人々を救うには当時の日本は貧し過ぎた。
ここで飼育されているのはなんと「カワニナ」である(なんでやねん!)。中間宿主であった「ミヤイリガイ」はいない。
宮入教授はこの貝に自身の名前をつけられたことをどう思ったのか、それは「ナナマキガイ」と呼ばせているあたり好意的には思わなかったのかもしれない。
最後に筆者が強調したい事が二つある。
一つは地方病を克服したのは日本のみである。
もう一つはこの未知の病を克服する上で重要な役割を果たしたのは、地方の現地人であった事である。
もちろん県外の多くの有志による協力なくして解決は不可能である。
それでも一住民に至るまでミヤイリガイ(ある意味で被害者と言える)の撲滅に努めた。
先人達が愛した土地にはそれを伝える人々と忘れまいとする意識が強く根付いている。
台南の護り 零式戦闘機32型
零式艦上戦闘機 32型
(左 22型 右 32型)
不人気な零戦
日本人に一番認知されているであろう零式艦上戦闘機(以下零戦)であるが、11型に始まり54型までの型式があることはあまり知られていない。
なかでも零戦32型は失敗作と言われる事が多く生産数もごく少数で、21型以降初の全面改良型新鋭機であるのに内地の部隊に多く配備された。
(零式艦上戦闘機 21型)
(零式艦上戦闘機 上21型 下32型)
21型からの改良点は主に発動機の改装(栄12型から栄21型)、機銃携行弾数の増強、生産性の向上でした。
なかでも着目すべき点は生産性の向上で、工作難易度を減らすべく翼端が50cmずつ短縮され、角形になりました。
一方で翼の短縮などにより燃料タンクが縮小し、零戦持ち前の航続距離が短くなってしまいました。この短くなった航続距離が零戦32型の評価を大きく左右してしまいます。
その活躍
零戦32型は期待を背負って日々激化するガダルカナル航空戦に投入されます。
このガダルカナル航空戦の特徴は日米の拮抗する航空戦力が相対した最後の戦いと言える事でしょうか?
また、ラバウル方面からガダルカナル島まではかなりの距離があり、日本軍には大きな負担になりました。
こうした中で発生したのが二号零戦問題です。簡単な説明で恐縮ですが、ざっくり話すと一号零戦(21型)に対して二号零戦(32型)が航続距離が短過ぎるため、ガダルカナル航空戦に参加できないと言う話です。
兵器はいかに優れていようと必要な環境に適応できなくてはいけません。
登場した時期が零戦32型の評価を変えてしまったのです。
(写真は航続距離を延長した22型)
その後ブーゲンビル島に日本軍の前進基地が出来てからはこの問題は落ち着きを見せます。
零戦32型もようやく作戦に参加すると持ち前の格闘戦性能を活かして活躍します。
米軍からは零戦とは異なる新型戦闘機として認知され、コードネームはHampとされました(零戦はZeke)。米軍の評価は上々でした。
台湾上空で
そんな零戦32型の物語です。
場所は台南市街地上空。日付は1944年10月12日のことでした。この頃は台湾沖航空戦の真っ最中で台南に米艦載機が来襲しました。
それを迎撃した日本軍機の一機に搭乗したのが杉浦茂峰さんでした。
杉浦さんの駆る零戦32型は戦闘の最中被弾炎上、市街に向かって降下を始めます。しかし市街地への墜落を避けるべく郊外まで誘導し脱出したものの、米軍機の機銃掃射を受け戦死しました。
杉浦さんが自身の死が迫るなかで最後まで住民の命を守ろうとしたことに感謝して、現在では飛虎将軍廟にて神様として祀られています。(オカルト要素があるのですが、興味を持たれた方はご自身で調べてください)
2016年9月21日、杉浦さんの神像が故郷である水戸市に里帰りを果たしました。
それは実に戦後71年ぶりの里帰りとなり、水戸の市民有志に温かく迎えられました。
(6) 日本戦跡探訪 陸軍 三式戦闘機飛燕
彼は訪れる人に歴史を語る
各務原航空宇宙博物館と言えば知っている人も多いだろう。
ここは太平洋戦争前に陸軍が飛行場として開設したのがルーツとなる。
以来、各務原の地は陸軍の航空機開発拠点として重要な役割を果たした。
そんな場所も現在では新旧の航空機関連の展示がされ、大人から子供まで楽しむ事が出来る場所である。
旧軍機からお馴染みの機体に直接記された注意書。
写真は展示の一部。
そんななかでも筆者が注目して欲しいのは三式戦闘機飛燕です。
スマートな機体が特徴的。
泣きどころの液冷エンジン。
筆者が作ったプラモ。各務原で実物を見てからすぐに作りました。
この飛燕は試作機で実戦機ではありません。そのためこれまでご紹介した戦跡とは異なるように見えます。
しかし、筆者にはそのようには見えません。我々が飛燕を見ているのではなく、飛燕に見られているような気がします。かつては国を護るために広げた翼を今では休めて、訪れる人々を見守っています。
飛燕を見つめるカップルや子供連れの家族を見ると、飛燕は立派にお役目を果たされたのだと筆者は感じるのです。
写真はオマケです。飛行機はまさに日進月歩。
それは現在でも変わりありません。
(5) 日本戦跡探訪 第五教育飛行隊跡
育った場所より最期の出撃に向かう
陸軍太刀洗飛行場跡
写真は筑前町立大刀洗平和記念館の写真です。ここには陸軍太刀洗飛行場があり、教育飛行隊から数多くの航空兵が輩出されました。
ちなみに知覧基地は太刀洗にある教育隊が拡張されるにあたり開設されました。
この記念館で筆者が感じたのは「死は平等ではあるが、不公平である」という事でした。
太刀洗平和記念館には遺品などの他に実物大のB29を表すモニュメント、零戦32型、97式戦闘機が展示されています。
これは筆者が作ったプラモデル。
上が零戦21型で下が32型。翼端の形状で見分けがつきやすい。97式戦闘機は二枚のプロペラが特徴的です。
そもそも零戦は海軍戦闘機であるというツッコミは置いておくとして、私が注目して欲しいのは館の中央にある追憶の部屋である。
この追憶の部屋では太刀洗飛行場や付近で戦没された方々の写真と死因が記されている。
中には日本軍機の体当たりを受けたB29の乗員まである。
筆者がここで感じたのは「必ずしも望むような死に方はできない」ということだった。
どれだけ訓練を積んでいようと必ずしも空中戦で死ぬわけではない。
事故で死ぬかもしれないし、故障や爆撃で死ぬかもしれない。そもそも死にたかった人自体がいなかったろうが、それでも死ぬならば、、、と考えていたのではないだろうか。
追憶の部屋では人それぞれの死に際を考えさせられるように思う。