(15) 日本戦跡探訪豊川海軍工廠慰霊碑
守る翼は空になく
豊川海軍工廠
豊川海軍工廠は愛知県豊川市にかつて存在した日本海軍の軍需工場である。
主に生産していたのは航空機用の機銃と地対空用の高射機銃、各種弾薬だった。
この海軍工廠は1938年に用地選定を行い、鈴鹿とともに豊川市が候補地とされた。
最終的に豊川市が選定され1939年12月13日、日本で5番目の海軍工廠として産声をあげた。
太平洋戦争が開戦すると航空機は戦争の一大重要兵器となり、それに搭載する航空機銃や防空砲台に配備する高射機銃は大変に重要な兵器となる。
その生産規模は随時拡大されその規模は東洋一と言われた。従業員は1945年の2月時点で56400名であった。また多くの徴用者や学徒勤労動員もあり増産に励みました。
豊川空襲
豊川海軍工廠が空襲を受けたのは間も無く終戦となる1945年8月7日のこと。
サイパン島、テニアン島、グアム島(いずれもかつては日本軍の拠点)を131機のB29が離陸、途中で硫黄島から護衛のためP51戦闘機が合流し一路豊川海軍工廠を目指した。
これに対して日本軍は午前8時53分、電探(レーダー)が三重県志摩半島沖を通過する編隊を捕捉したものの迎撃戦は展開されなかった。
その後午前10時06分に編隊が知多半島上空を通過、この時に攻撃目標が豊川海軍工廠である事が判明した。
しかし、空襲はその数分後10時13分より開始され、10時39分の空襲終了までに813tが投下された。
この空襲により豊川海軍工廠では最大で2818名が亡くなり、工場機能は喪失した。
終戦まであとわずかに8日のことであった。
豊川市内には多数の慰霊碑が建立され犠牲者の御霊を弔っている。
今回は豊川稲荷様に建立されている慰霊碑をご紹介する。そのしっかりと整備された様子から犠牲者への弔いの念を感じる。
筆者も線香と蝋燭をあげさせていただきました。戦没者の御霊が安らかに眠り、令和の次の世も永久に厚く弔われますよう祈ります。
日本軍の迎撃
日本軍は比較的に早く8時53分には電探でこれを捕捉していたものの、戦闘機による迎撃はありませんでした。唯一迎撃戦を展開したのは海軍工廠や周囲の山の山頂に布陣していた高射砲部隊であり、戦果は一機被弾したのみでありました。
(写真は明治基地付近)
この付近には伊保原飛行場、河和空、明治航空基地など実戦機を擁する部隊はいたものの、戦力温存に注力したため迎撃戦は展開しなかったのだと思われます。
または敵の爆撃目標が市街地を狙ったもので迎撃の優先度が低いと判断していたのかもしれません。
他に考えられるのはこの編隊が護衛機を伴っていた事も理由として挙げられます。
大戦末期には戦果の割に被害が大きい対戦闘機戦は避けらるようになり、迎撃戦はかなり低調になっていました。特に硫黄島が奪取されてからは護衛機が随伴するようになり、双発迎撃機(屠龍、月光)は戦場より駆逐されてしまいました。
限りある航空機と燃料、搭乗員をどのように使用するのか、当時の軍関係者の方は相当悩んだのではないでしょうか。
度重なる空襲に十分な反撃ができず、国民を守る事ができない事に悔しさを募らせていたのだと思います。
当時の防空関係者の方々に敬意を表し本文を締めさせていただきます。
航空戦史(1) 九州沖航空戦
沖縄戦の前哨戦
九州沖航空戦
1945年3月18日〜21日まで続いた航空戦である。
一連の航空戦により、迎撃戦を担任した日本海軍は作戦機を258機以上失った。なかでも第五航空艦隊に打撃を受けたほか呉空襲のため日本海軍艦艇多数に損害を受けた。
米海軍は空母三隻を撃破され艦載機89機を失った。
あまり知名度のない戦いではあるが、沖縄戦において大きな影響を与えた。この九州沖航空戦が発生した原因は沖縄攻略を図る米軍による牽制にあった。
1945年3月18日
1945年3月18日、九州沖航空戦が勃発。牽制のために九州や瀬戸内海に米機動部隊が来襲。12隻の空母と艦載機1400機に対し、日本海軍が作戦機400機(うち特攻機193機)で反撃。
戦闘初日である18日、日本軍攻撃機は193機の攻撃機のうち161機を喪失。迎撃戦に参加した零戦も47機を喪失した。対する米軍は空母三隻が小破、被撃墜29機であった。
1945年3月19日
1945年3月19日、九州沖航空戦二日目。
米機動部隊が室戸岬から80kmまで接近、呉軍港に空襲を開始。日本海軍艦艇に損害多数。
松山上空にて三四三空所属機(紫電、紫電改)が迎撃戦を展開、米艦載機多数を撃墜した。
この際に日本軍索敵機彩雲が被弾後に体当たりを敢行、空中にて衝突した機体は四国は高知県高岡郡に墜落した。
現代でも戦没した搭乗員を慰霊するため、三魂の塔と言われる慰霊碑が建立され御霊を弔っている。
この日、日本海軍は出動可能な全航空戦力で反撃を開始、米機動部隊に対して特攻を交えた攻撃を加えた。
攻撃は黎明より開始され、雲間を低空にて突き抜けた陸上攻撃機銀河より投下した爆弾を米空母が被爆、必死の攻撃が続き19日中に米空母二隻が大破し他一隻が修理のため離脱した。
1945年3月20日
1945年3月20日九州沖航空戦三日目、相変わらず日本軍による反撃はつづいた。
陸海軍は米機動部隊の攻撃目標を19日時点では、それぞれ台湾と小笠原と見ていた。
しかし、20日時点での情報の集計より敵攻撃重点を南西諸島として、決戦場を南西諸島とした。
この方針に基づき航空戦力の集結を開始、敵主力を沖縄方面で撃滅するとした。
1945年3月21日
1945年3月21日、有人ロケット弾桜花を実戦投入。桜花部隊(神雷部隊)は機動部隊突入前に米戦闘機により迎撃され全滅した。
神雷部隊指揮官の野中五郎少佐は出撃前より同部隊の運用に疑問を呈していたが、その意見が取り入れられることはなかった。
この時の教訓から、以降の桜花運用は少数機を間隔を空けて出撃させる運用となる。
日本情景探訪(2) 駿府城跡
学徒出陣の足音を聞いて
やすらぎの塔
最近になって再調査が完了した駿府城であるが、その一角にそれは存在する。
やすらぎの塔と命名されたこの塔は、戦没した勤労動員の学生の御霊が安らかであるように祈り、後世に歴史を伝えるべく建立された。
この塔は2001年の地震により損傷してから、現在に至るまで修復がなされていない。
学徒出陣の慰霊碑は旧国立競技場に学徒出陣壮行の碑が建立された(新国立競技場に移設予定)。
学徒出陣により軍に動員された多くの学生がその命を散らした。
駿府城(静岡城)
駿府城は元は今川氏の居城であったが、今川義元が織田信長に討たれてからからは徐々に勢力を退くこととなった。
最終的には旧同盟相手だった武田信玄による駿河侵攻により武田氏の手に渡った。
その後は武田氏の滅亡により徳川家康の手に渡り、長くその支配下に置かれた。
将軍職を譲った徳川家康が晩年を過ごし、死去したのも駿府城であった。
近代史としては陸軍歩兵第三四連隊が駐屯した。
以下は写真。
天守などは残っていない。
家族連れの人達が遊んだり寛いだり。町の中に石垣を綺麗に残されていた。駿府の人達に愛されているのだと感じました。
(14) 日本戦跡探訪 鈴鹿海軍航空隊
軍都鈴鹿に爆音を響かせて
鈴鹿海軍航空隊
鈴鹿海軍航空隊(以下鈴空)は1938年に偵察機搭乗員(偵察・通信)専修の練習航空隊として開隊された。
同様の練習航空隊は静岡県は牧之原に在空しており、鈴空では約2万名を各航空隊に送り出しました。
最盛期では約3,000名が在籍し錬成に勤めました。
鈴空の付近には他に香良洲空(三重海軍航空隊)が在空しており、比較的に近い場所に教育部隊が在空していました。香良洲歴史資料館に展示されている白菊の翼は鈴空所属機と思われています。
鈴空は錬成に励んでいたものの日本軍の武運は長く続かず、1945年には鈴空は解隊となり第一鈴鹿海軍航空基地として再編されます。
これにより鈴空は練習航空隊から実戦部隊となり、菊水作戦に策応して特別攻撃隊若菊隊が編成されました。
こうして編成された若菊隊は特別攻撃の練習を続けました。こうした練習の最中でも機材不良や事故、敵戦闘機との交戦により多くの若鷲が命を落としました。
(白菊の主翼)
白菊特攻隊
フィリピン特攻戦は現地に展開した陸海軍の実戦部隊により敢行された。これらの特別攻撃隊は比較的練度の高い部隊と実戦機により特攻が行われたが、沖縄戦(菊水作戦)も数度にわたる航空戦により、実用機による特攻機の手配がつかなくなった。
そのため1945年より練習機による特攻隊の編成が開始されるに至った。なかでも機体数も確保できて操縦が容易な白菊は、250kg爆弾2発と爆装も大きく白菊特攻隊が編成された。
白菊特攻隊は以下の通り。
・高知海軍航空隊(菊水白菊隊) 特攻出撃
・徳島海軍航空隊(徳島白菊隊) 特攻出撃
・鈴鹿海軍航空隊(若菊隊) 出撃待機
・大井海軍航空隊(八洲隊) 出撃待機
練習機による特攻隊編成は戦局が最終局面にあることを予感させるとともに、その成功が非常に難しいことは予想がされていた。
そのため白菊特攻隊は白昼堂々の出撃は不可とされ、夜間飛行訓練を行った。こうして夜間飛行訓練を行った白菊特攻隊は夜間出撃し、夜明けに敵艦船に特攻攻撃を行った。
期待値は低かった白菊特攻隊であったが、ピケット線に展開した米艦艇に突入し少なくない被害を与えた。にもかかわらず白菊特攻隊では指揮官機の他には通信機を搭載していない場合が多く、その戦果を知ることはできなかった。
菊水七号から菊水十号までの間に徳島空で56名、高知空で52名が大空に還った。
鈴鹿の地に
現在では鈴空の存在を示す遺構はほぼ残っておらず、隊門跡や歩哨小屋などが唯一その存在を伝えています。
(市民が建立したモニュメント)
(隊門)
(歩哨小屋)
軍都鈴鹿で祖国や家族のために青春を捧げた多くの将兵の活躍を、未来に伝えることが求められています。
(13)日本戦跡探訪 大井海軍航空隊跡
白菊に想いを乗せて
大井海軍航空隊
大井海軍航空隊(以下大井空)は1942年4月1日、静岡県榛原郡川崎町は大井飛行場にて開隊。大井飛行場は牧之原台地の茶畑を接収し後に増設された。
大井空は同年11月に土浦海軍航空隊を卒業した学生の受け入れを開始し、1944年の最盛期には3000名の隊員が錬成に勤しんだ。
また大井飛行場の位置関係から遠州灘付近の輸送航路を脅かす、敵潜水艦の対潜哨戒や対潜掃討を行う館山海軍航空隊を迎えた。
その後敗退が続く戦況でも搭乗員の錬成に励んでいたが、1945年3月25日に天一号作戦が発動。大井空も菊水作戦(航空総攻撃)に策応し、練習機白菊による三個特攻隊を編成、八洲隊と命名された。同部隊は菊水一号作戦より特攻出撃待機となった。
十度にも渡った菊水作戦だったが八洲隊には出撃命令が出ず、菊水十号作戦終了をもって出撃待機は解除となった。
大井空は全国の練習航空隊が錬成を停止する中で、数少ない錬成機関として終戦まで活動しました。
大井飛行場を巣立った多くの偵察機搭乗員が自身の任務を全うし、還らざる索敵飛行に出撃し、彼等の命と引き換えに入手した情報が日本海軍の作戦を支えました。
天一号作戦
天一号作戦とは大戦末期に本土防衛を目的とした作戦である。天号作戦の最大の特徴は作戦の手段を航空機に頼った点である。
これは可能な限り本土より離れた場所で敵を食い止めたい意志の現れだと筆者は考えるが、フィリピン特攻戦や台湾沖航空戦、レイテ沖海戦と日本の航空戦力は消耗が激しく作戦遂行能力は厳しいものであった。
また天号作戦では陸海軍で作戦の捉え方が異なり、最終的に本土で敵を迎え撃つ計画を志向し国内に戦力を残置する方針を示した陸軍に対し、海軍は沖縄を天王山として可能な限りの戦力を差し向けた。
認識が異なる一方、本土に迫り来る敵が南西諸島(沖縄)を前進基地に利用すると公算した陸海軍は、米軍による着上陸戦過程において痛撃を与えることを目的とした。
結果として1945年4月6日より、1800機を超える特攻機をもって航空総攻撃たる菊水作戦が発動された。
大井海軍航空隊跡地
現在、大井海軍航空隊を伝えるのは牧之原コミュニティーセンターで、練習機白菊の車両や発動機が展示されています。この発動機は特攻訓練中に墜落した白菊の発動機とされています。
他には防空施設や明治基地跡にも散見した燃弾庫らしい物が遺されています。これらの施設は私有地に点在しており、数十年後には存在しなくなっているかも知れません。日本のために命をかけた先人達の記憶を写真という形でも遺さねばなりません。
防空施設
燃弾庫
(11) 日本戦跡探訪 明治航空基地
東海の護りは南の空に散った
明治航空基地
明治海軍航空基地は1943年より建設を開始し、1944年より第三四五海軍航空隊(以下三四五空)明治派遣隊が実用機(紫電)による訓練を開始した。戦局の悪化に伴い中京圏防空を任務とした。
その後三四五空に続き第ニ一0海軍航空隊
(以下ニ一0空)が明治航空基地で開隊され戦列に加わりました。
中京地区は三菱重工の航空機生産拠点があり、空襲の格好の目標となりました。
明治基地所属ニ一0空はB29迎撃戦において活躍し、他の航空隊や高射砲と協力して多数の損害を与えました。
ニ一0空の菊水作戦投入後は同部隊の再編により原隊復帰し、明治、豊橋、名古屋(伊保原のことか)などの各基地にて戦力温存に努めました。
第三四五海軍航空隊
局地戦闘機を本格的に配備するべく編成された部隊。1944年1月15日に兵庫県西宮は鳴尾飛行場で開隊された。紫電を72機配備する予定であったが生産が間に合わず、零戦により編成された。
明治基地にはようやく紫電が配備された三四五空から分遣隊が配備され訓練を行った。
三四五空はなかなか配備が進まない戦闘機定数に悩まされつつ錬成に励みましたが、マリアナ決戦失敗後の航空隊再編に伴い第三四一海軍航空隊の指揮下に移りました。
第ニ一0海軍航空隊
ニ一0空は来るべきフィリピン方面決戦(レイテ決戦)に向けて、実戦機の実戦的な訓練を行うために1944年9月15日に明治航空基地で開隊されました。
そのため訓練に向けて大規模な部隊が編成されました。特に付近に三菱の航空機生産拠点(三菱重工名古屋航空機製作所)があり、新造機の補充が比較的容易とされていました。
作戦機定数は以下の通りです。
艦上戦闘機 48機
局地戦闘機 48機
陸上偵察機 24機
艦上爆撃機 24機
艦上攻撃機 24機
しかし戦況の悪化により、占領地より飛来するB29が名古屋地区に空襲を行うようになります。
ニ一0空はこの迎撃にあたり明治基地より出撃しました。
1945年に沖縄防衛戦が開始されると、精強なニ一0空にも菊水作戦参加が要請され、国分基地や串良基地、出水基地に分散配置となりました。
菊水作戦には一号より参加、作戦初日から彗星部隊による対機動部隊攻撃の他に、零戦や紫電部隊による制空戦を行いました。
精鋭たるニ一0空でしたが、4月11日にはついに爆装零戦、爆装彗星による特攻隊が出撃しました。
菊水作戦参加は三号が最後となり、制空部隊として特攻機の血路を開きました。
菊水三号以降では原隊に復帰し再編成をされ、明治基地等に分散配置され戦力の温存に努めました。
この温存の期間中は迎撃戦にも参加せず、空襲の間を縫って搭乗員の錬成に励みました。終戦時には稼働状態の零戦45機を含む65機を保有していましたが再び飛び立つことはありませんでした。
明治航空基地跡
現在では明治航空基地の存在を示す遺構は少なくなりつつあります。石碑により説明があります。
カマボコ型の建造物は燃弾庫というものです。飛行機に補給する燃料や弾薬を分散保管していたようです。
東端公園敷地内には明治基地戦没者慰霊碑が建立されています。名古屋の防空戦に、沖縄防衛戦に多数の搭乗員が空を朱に染めて波間に散りました。
明治航空基地があった敷地より見上げた空は綺麗でした。明治航空基地に勤めた将兵も同様に空を見上げていたのでしょうか。
菊水の写真館
菊水が作成した写真を加工した写真です。
こうした写真はブログの表紙に使用しています。
誰かがこれに乗って出撃すると思って作成してはいるけど、出来栄えはイマイチ。
菊水の写真館
零式戦闘機 52型
零式戦闘機 52型(奥に二式水戦)
零式戦闘機とその他多数(それらしい雰囲気を出したかった)
艦上偵察機 彩雲
艦上攻撃機 天山
(Wikipediaの写真を真似したかった)
零式戦闘機 (塗装の剥がれの練習をした)
艦上攻撃機 流星(奥は九七艦攻)
零式戦闘機(左二二型右三二型)
四式戦闘機(一番手前・陸海軍合作)
出撃直前をイメージ
一式陸攻(菊水は天山と同じくらい好き)
三式戦闘機 飛燕(迷彩が大変だった)
第一弾はここまで。
需要はないけど個人的な記録としてこれからもやるかも?